● 短編・ショート ●

●● オレンジゼリー ●●

   

こんなにもちょっとした事で涙が溢れてくるのは、オレの死が近づいているからかもしれない ――

涙で滲んだ視界には、病院の天井が見える。
バカだ。
オレは生きている。


―――――

移された大部屋で、リハビリの予定が書かれた紙を見ていた。
急に開けられたカーテンのせいで、オレは眩しくて目を細めた。
「やっぱり若い人は回復が早いわね!」
年配の看護師に、本気で感心されながら言われた。
自分でも、確かに回復は早いと思った。
心の内は何ひとつ癒えていないというのに、オレの肉体だけはぐんぐん元の力を取り戻していた。


サークルの飲み会。オレは終電に間に合うか気にしながら、腕時計を見た。
「先輩、方向同じなら送っていきますよ」
「お前、車なの?飲んでないのか?」
「ハイ。今日はまったく飲んでませんよ」
帰り際、声を掛けてくれたのは後輩だった。
特に親しくしていたわけじゃないが、いつも礼儀正しくていかにも『いい後輩』ってヤツだった。
「じゃあ、悪いけど…一緒に帰らせてもらっていいか?」
「ハイ。全然いいですよ」
オレは結構飲んでいて、後輩の申し出は心底ありがたかった。
オレはヤツの言葉に甘えた。

後輩は男のくせに驚くほど安全運転だった。
聞けば、新車を買ったばかりで今はどこに行くのも車なんだそうだ。
大切に乗っている、というのがヤツの運転に現れていた。
オレはウトウトとしてきた。
「先輩、寝ちゃっていいですよ」
「ああ…でも」
「近くなったら声かけますから」
「…悪いな…」
深夜の12時を過ぎていた。
後輩に送ってもらえて、本当に良かったと思った。

うつらうつらした意識の中、微かに覚えている。
交差点に入った時だった。
信号無視した車が、オレたちの車の右側に思い切り突っ込んできた。
そこで記憶が飛んだ―――。
次に意識を取り戻した時に目の前にあったのは、親の泣きはらした顔だった。
オレの体には幾つもチューブが繋がっていた。
後輩は、即死だった。


悪いのは、飲酒運転していた加害者だ。
それでもオレは自分を責めた。
まるで後輩を殺してしまったのは、自分であるかのような気がしていた。
オレを送ってくれたことで、アイツの時間が微妙にずれたのは確かだ。

―― どうして、オレだけ助かってしまったのか。

あんないい奴が死んで。
こんなオレが残って……。



『回復が早い』と言われたとおり、オレの上半身はほとんど元通りに動かせるようになっていた。
心配されていた下半身も、右太腿に受けた大きな損傷の経過も問題なく、今では少しずつ体重をかけて自分の力で歩けるようになってきていた。
全力で走るのは、もしかしたらもう一生無理かも知れない。
それでも『歩ける』というだけでも、今のオレにはありがたかった。
少なくとも、オレを前に向けさせる何よりの原動力になった。

暑い真夏の昼下がり、薄いカーテンのかかった病院の廊下。
リハビリルームから出たベンチに座りながら、オレは右手で無意識にタバコを探していた。

「リハビリしてるの?」

親しげな問いかけに、知り合いかと思ってオレは顔を上げた。
知らない顔、だけど凛としていて美しかった。
オレより少し下だろうか、同じぐらいだろうか…真っ黒な髪はまっすぐに伸びて、今までオレと関ってきた女たちとは全く違っていた。
暑い廊下で、彼女の周りの空気だけやけに涼しげな気がした。
「………」
オレは黙ったまま、彼女を観察した。
薄い水色のスウェットにTシャツを着ている。
彼女は少し微笑んで、オレの隣に腰を下ろした。
腕に視線を移すと、青い痣が目に入った。
彼女の腕が白いから、その青さはとても違和感があった。
点滴の跡…。
オレの両腕にもまだ残っている。
彼女のそれは鮮明で、日常的に繰り返されていることが想像できた。
「ここの患者?」
当たり前過ぎることをオレは彼女に言った。
彼女は頷くわけでもなく、微笑んだ。

「……名前、なんていうの?」
退屈過ぎる入院生活、自分を責めてばかりの日々。
オレは彼女の名を聞いた。
彼女の薄い唇が、開く。

「…真歩(まほ)……」


それから、真歩はオレのリハビリが終わる時間に、毎日廊下で待っていた。
何もすることがないオレたちが親しくなるのに、時間なんて関係なかった。
4日目には、もう何年も前から知り合いのような気がしていた。
彼女はオレより一つ年下だった。
病院の中で、若いオレらはかなり浮いた存在だったと思う。
それがオレたちの親近感を余計に高めたのかも知れない。

夕方、人のいないロビーの奥。
病院のあちこちが、節電のため消灯されている。
オレたちの周りも薄暗くなり始めていた。
「このペースだったら、来週早々には退院になると思う」
昨晩、担当の医師に言われたのだ。
オレは自分の膝を撫でた。
真歩はオレから目をそらした。
「そうなんだ……」
あからさまにガッカリした様子で、真歩は言った。
「真歩は、まだ退院できないのか?」
なんだか聞いてはいけないような気がして、ずっと聞けないでいた。
真歩が内科の方で入院しているのは分かっていた。
入院生活がオレなんかよりもずっと長そうなのも、何となく察していた。

真歩は暫く黙っていた。

「ねえ、お願いがあるの」
「何?」

まっすぐ見つめてくる真歩の目は大きくて、細い体に不釣合いなほどだ。
それでもその瞳の奥は真剣だった。
真歩の唇がゆっくりと動く。

「私のことを、しょっちゅう思い出してくれる?」

「えっ…?」

最初、意味が飲み込めなくて、オレはポカンとしてしまった。
「時々…とかじゃなくて、しょっちゅう、毎日のように、…思い出して欲しいの」
(愛の告白…じゃないよな)
必死な彼女の様子に、オレは戸惑った。

「…誰かに……覚えていて欲しいの…」

「真歩…」
彼女は両手を握り締めて、うつむいてしまった。
長い黒い髪で、表情が見えなくなる。
ロビーにはもう誰もいない。
静かなフロアで、少し大声を出しただけで響いてしまいそうだった。

「お前、……もしかして、…重病なのか?」
思わずオレは聞いてしまった。
「………」
真歩はゆっくり息を吐いた。
「……重病、っていうか……もう…手術しないと生きられないっぽい」
「……」
オレは頭が真っ白になって、返す言葉がすぐに浮かばない。

(生きられない…?)

「…でも、手術すれば、大丈夫なんだろ?」
そう言ったのは、だいぶ時間が経ってからだった。
「手術………。成功率、低いんだ」
「…………」
現実は結構、考えたくないほど最悪な方へ最悪の方へ流れていくもんだ、とオレは最近つくづく感じていた。
真歩の黒い髪は艶々で、それはオレに生命力を連想させる。それなのに。
「いつ手術、すんの?」
オレは声が震えそうになるのを堪えて言った。
「もうすぐ」
そう言った彼女の白すぎる手を、オレは改めてまじまじと見た。

真歩は自分の両手の指を絡め、爪先を触った。
「もしか、死んでも……忘れないでね」
か細い声で、彼女は言った。

(死ぬって、何だよ…)

オレは神の存在を全否定したくなってくる。
あんな何も罪もない後輩を連れてって、その上、真歩まで。
この理不尽さに、憤りを感じずにはいられなかった。
「…………っていうかさ、」
オレは何故か怒りにも似た気持ちがこみ上げてくる。
「今、お前生きてるじゃん」
「……」
真歩はオレを見た。
「死ぬって決まったわけじゃないだろ」
「……」
真歩は驚いて益々オレを見つめてきた。
オレはなんだかムキになってた。何故だか、涙が出そうになっていた。
「死んだ後のことなんて考えても、何も意味なんてないぜ。
……何も、……死んでしまえば何も考えることもなくなるんだぜ?
それよりも、…お前のこの先に続く未来のことを心配しろよ。」

「………」

「お前は、生きてるんだから」
そう言いながらオレは後輩のことが頭に浮かんでいた。
目の前にいる真歩は、確かにそこにいた。
手を伸ばせば触れられる距離に。

真歩は考え込んでいた。
彼女の白すぎる腕。
今、隣にいる真歩が、本当にいなくなってしまうなんて考えられなかった。
想像もできない。いや、そんな事したくもなかった。

後輩の最期の言葉…、オレはそれすらも思い出せないでいた。
何度も自分の中でループしていた自責の念が、またオレの表面へ現れてくる。

「成功する確率だってあるんだろ」
長い沈黙の後、オレは、やっとそう言った。
静か過ぎる病院のロビー。
遠くでガラガラと何かの車輪を引きずる音が響いた。
隣に座っている真歩は少し考え込んだ後、コクリと頷く。
「そうだね……。私…」
そして前を見た。
「手術の日で、自分の人生が終わってしまうことばっかり考えていた」
「………」
オレは下手したら涙が零れてしまいそうになるのを何とか耐えた。
真歩は大きく息を吐いた。そして続けて言う。

「もしかしたら、手術の後……未来が続いていくかも知れないのに」

「お前は…」
オレは彼女の腕をとった。
「今こうして生きてるんだから」
オレは彼女を見た。顔を上げた真歩と目が合う。
伝わる手のぬくもりが、彼女が確かに生きていることをオレに実感させる。
「今は、そのことだけ考えとけ」
それがオレの精一杯の言葉だった。
「……うん、そうする」
彼女はオレの手を握り返してきて、そして笑った。
出会ってから、一番いい笑顔だったと思う。
オレも笑顔を返すと、真歩は恥ずかしそうに微笑み返してくる。

「あのさ…改めてお願いしたいことがあるんだけど」
「何?今、オレができる事なんてあんまりないけど…」
「あのね…」
真歩は少し困ったような顔になる。
近くでまじまじと見る彼女は、本当に綺麗だと思った。
温室で、大事に育てられた花……。それでも太陽の光を望んで止まない芯の強さ。
握り締めた真歩の手に力が入る。

「私の処女を、貰ってくれない?」



結構長くなってた病院生活で、オレは急に現実に返ったような気がした。
真歩のその言葉を聞いて以来、オレは今生きていることを不思議と実感していた。

オレは初めて真歩の病室へ入った。
「すっげー、オレの部屋と全然違うじゃん!」
真歩の病室は個室で、部屋の所々には木材が使われていて、病室というよりも普通に生活感がある感じだった。
「おい、シャワー付きかよ!」
入ってすぐのところに、ユニットバスまであった。
オレがいる大部屋とは、全くグレードが違っていた。
オレはひとしきり部屋をジロジロ見回した。
「真歩んち、金持ちだな!」
「…金持ちっていうか…、こうまでされると…逆に落ち込むよ」
真歩の表情が少し曇る。
ベッドの傍に立つ白いパジャマ姿の彼女は、見つめていたら羽根が生えて、そのままふわっと飛んでいってしまいそうに不安げに見えた。
それでも美しく、いつもどこか凛としている真歩。

『死』を、切実に目の前にした彼女の辛さは、こんなオレには分かるわけがなかった。
現実を受け入れるしかない状況で、真歩は強いなとオレは思う。
オレの中で急速に愛しい気持ちが増してくる。
大事にしたい儚さ。
それでも握り潰してしまいたい衝動が沸き起こる。

「真歩……」

ベッドに腰掛けている真歩に、オレは近づく。
頬に手を伸ばすと、彼女はビクンと体を震わせた。
オレは彼女にキスした。

真歩の唇は彼女の気持ちをもろに反映していて、硬く緊張していた。
オレは彼女を押し倒すと、さらにキスを繰り返した。
「………」
キスしながら、裾にレースの付いた白いパジャマの前ボタンを、オレは外していく。
真歩は目を閉じたまま、オレに触れられると警戒するように、その度に体を硬くした。
(…………)
オレにとっても、こういうシチュエーションは久しぶりだった。
真歩が戸惑うのと同じように、オレも困惑する。

白い肌。
真っ白な胸に、色の薄い乳首。
触れると更に硬くなる彼女。

「………」

静かに時間は流れた。
こんな状況なのに、静寂すら感じた。
真歩の下半身を開くと、予想していたとおりに乾いたままだった。
(………)
彼女の緊張っぷりに、オレは心の中で少し引いて萎えてしまう。
オレは首を振った。

「真歩……」

「え……」
彼女はやっと目を開ける。
オレは真歩の両手を掴んで彼女の体を起こす。
そしてそのまま、パジャマの上だけ着けた姿の真歩をベッドの外へ引っ張った。
「…えっ……え…」
戸惑う彼女をそのまま促して、窓際に立たせる。
白いカーテンの隙間からは昼間の景色が見える。
オレはカーテンを10センチぐらい開いた。
「やだ……見えちゃうよ」
振り返り、すがるようにオレを見る真歩。
「見えないよ…」
オレは彼女の両手を、窓枠の手すりを持つように引っ張る。
真歩のパジャマの前ははだけたままだ。勿論下半身は何もつけていない。
「や…恥ずかしい…や…」
真歩は首を振る。
オレは彼女の髪を分けて、耳を舐めた。

「だってこれから恥ずかしいこと、するし…」
オレは真歩の耳元でささやいた。
わざとパジャマの前を開いて、胸を露出させる。
「あっ…」
オレは彼女を後ろから抱きしめるように手を回し、乳房を触った。
「あ、…あっ…」
さっきまで無反応に近かった真歩が、声を出す。
「見えちゃうかもな…」
わざと、オレは言った。
「…あぁ…いや…」

暫く真歩の胸を愛撫していた。
意図的に真歩から見えるように胸をあらわにさせて、乳首の先まで丁寧に触った。
それだけでオレは十分興奮してきていた。

「………」
真歩の後ろへ回り込んで、パジャマをたくし上げて尻をオレの方へ引っ張る。
「あぁんっ…」
処女なのに、こんな格好は相当恥ずかしいだろうなとオレは思う。
そしてそんな状況が更にオレを興奮させた。

真歩を窓際に立たせたまま、オレは彼女の尻を両手で掴み、その間に顔を埋めた。
「あぁっ、……やっ…恥ずかしいっ…」
舌を伸ばして、真歩の溝に這わせていく。
彼女の体がビクンと大きく振れた。
「…あぁっ!」
前方にある突起を捉えると、オレはそこを更に舌で責めた。
「……うっ、…うぅんっ…」

何度も何度も、オレは真歩のそこを舐めた。
彼女はだんだんと息が上がってきて、そして上半身は崩れ窓枠にもたれかかった状態になる。
足がガクガクしてきていて、真歩は今にも座り込んでしまいそうだ。
「ちゃんと、立って…」
オレは彼女に声をかける。
「あぁ……はぁっ…はぁっ」
真歩は自分の足に再度力を入れた。
オレは唇を離し、指先で突起を愛撫しながら、反対の手でそこへゆっくりと指を入れた。
「んっ…!…んんっ…」
真歩が一瞬体をこわばらせる。
さっきのベッドの上とは違って、真歩は濡れていた。
オレは突起を揺する指先を更に早めて、彼女に言った。
「大丈夫か?…真歩」
真歩は息を荒げて答える。
「…んっ、…う、…うん…」

真歩の反応。感じているはずだ。
オレは立ち上がると、彼女の腰を引っ張った。
自分のものを当て、ゆっくりと彼女を開いた。

「ああっ!!あああんっ!!」

「声、大きいって…」
オレは真歩を制した。
真歩の中はキツくて、それでも十分に濡れてオレを受け入れようとしていた。
「うっ……うぅぅぅっ…」
窓枠を握り締めている真歩の手に力が入っている。
痛みを堪えているのだろう。
それでもオレは半ば強引に彼女の中へ更に侵入した。
「あぁっ……あぁぁぁぁっ…」
しゃがみこみそうになる真歩の腰を抑え、オレは負傷が癒えた下半身をゆっくりと動かした。
上に白いパジャマを着たまま、白い尻を晒している真歩の姿は官能的だった。
それに真歩の内部はギュウギュウとオレを締め付けてくる。
黒い髪が乱れる姿は、オレを興奮させた。

「うぅっ、うぁぁんっ……」

苦しそうな声を出す真歩。
オレは彼女の髪を分け、後ろから真歩の横顔が見えるようにする。
涙がこぼれている美しい睫毛を見て、視線を下に移してオレのものが間に入った彼女の小さな尻を見る。
倒錯すら感じさせるその対比に、オレは高ぶってしまう。
(はあ………)
すごく興奮していた。

オレ自身もすぐに限界が来る。
『いいよ』と彼女は言っていたけれど、オレは真歩の外へ放った。



退院の日、オレは真歩の部屋へ向かった。
彼女はスヤスヤと寝息をたてて眠っていて、その幸せそうな寝顔を見ると起こすに忍びなかった。
閉じた目にまつげがビッシリと生えていて、普段こんな瞳で見つめられていたのかと思うと、寝顔を見るだけでなんだか胸がグっとくる。
オレはそっと真歩の頬に触れた。

『手術が終わったら、電話くれ』
そう書いて携帯番号を写したメモを残した。
(この寝顔がお前を見る最後だなんて、そんなのはやめてくれよな…)
そんなことを考えながら、真歩の病室を後にした。


――――――

そして日常は想像以上に普段どおりに過ぎた。
オレが事故にあって入院していた事など、世の中には何ら影響を及ぼさないもんだなと、当たり前だが改めて思う。
退院して数日後、オレはやっと重い腰を上げた。
どうしてもしなければならない事がある。
それを避けては、オレの『これから』は前に進めなかった。
オレは普段着で家を出ると、そのまま電車に乗って後輩の家へ向かった。

地図を確認しながら、歩く。
オレはずっと入院していて、あいつの通夜にも葬式にも出られなかった。
汗が出るのは、残暑が厳しいせいだけじゃなかった。
一歩近づく毎に、認めたくない現実が迫ってきてオレは息苦しくなってくる。

後輩の家に着くと母親らしき人が出てきた。
オレが自分の名前を名乗ると、少し間があってハっと気づいた様子だった。
「あぁ……、お怪我は大丈夫?」
「はい」
予想していた以上に、後輩の母親は冷静にオレを迎えてくれた。
後輩の母親のその姿に、あの日から大して時間が経っていないはずなのに、確実に時が流れていっているのを感じずにはいられなかった。
和室に通されると、仏壇の前には沢山のお見舞い品や、縁の品々が並べられていた。
「…………」

仏壇の中央に、やけに真新しいあいつの笑顔の写真があった。

(本当に死んだのかよ……)
あいつがこの世にいないという事が、この期に及んでも信じられなかった。
それでも笑顔のあいつの写真はキチンと仏壇の中に祭られていて、それがオレの目の前の現実だった。
「………うっ…」
考える思考よりも早く、体が反応していた。

オレは頭が真っ白になって、ただ号泣した。


オレの記憶の中では、車の中で一緒にいた明るいあいつの姿が全てだった。
今、どんなにこの世界を探しても、もうあいつはいない。
オレはこうして、生きているというのに。

「ごめんな……ごめん……」

オレは何度もそうつぶやいていた。
嗚咽が止まらなかった。


どれぐらい時間が過ぎていたかは分からない。
だんだんと落ち着いてきて立ち上がって部屋を出ようとすると、後輩の母親が部屋の入り口のところに立っていた。
彼女もまた、涙を流していた。
オレはその姿を見て、また涙が止まらなくなる。

「あの子の分まで、生きてね」

そう言われて、手を握られた。
胸が痛い。
痛すぎて、言葉が出ない。
言うべきことを考えてきたはずなのに、結局オレは何ひとつ言えずに後輩の家を出た。


リハビリのおかげで日常生活を過ごす分には差し障らなくなった足で、オレはゆっくりと階段を上がる。
ホームで帰りの電車を待った。
当たり前のように定時に到着した電車に、穏やかな日常を過ごす人々が溢れる。
オレも電車に乗り込んだ。
(いつもと変わらない……)
確かに、あいつ一人が世界からいなくなっても何ひとつ変わっていない。
それでもあいつに関わってきた人々の中に、大きさの違いはあるといえ、確実に波紋を残していったのは事実だ。
『何ひとつ変わらない』ように見えて、少しずつ、誰かの心を変化させている。
オレの心の中にも、絶対に消えない何かが残された。
「忘れねえよ…」
オレはあいつの死を心に刻み込もうと思う。
時に流されても、忘れたりなんかしないだろう。
これからも、あいつが死んだことを何度も思い出すだろう。
その度にあいつが確かに生きていたという事を胸に刻むんだ。

人生に意義を考えることの意味なんて、ないかも知れない。
ただ、目の前に『今』という時間があること……
シンプルに言うならそれが全てだ。



オレは自分の駅に戻らずに、その足で病院へ向かった。
(今日できる事が、もしかしたら明日にはできなくなるかも知れない…)
それは自覚しているかしていないかだけの違いで、誰にとっても一つの現実なんだろう。

彼女に会いたいと思った。
少しでも早く、少しでも多くの時間を。
オレはやっと自由になった足で、彼女の元へと急いだ。


ポケットの奥に入れっぱなしにしていた携帯電話には、手術が終わった彼女からの着信が何度も入っていた。


 

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