ビル街の間にある最近できた遊歩道を抜けて、オレは会社へと急ぐ。
さすがに外がこれだけ暑いと、ここで散歩や休憩をしている人はいない。
照りつける陽射しのせいで濃い影を落とす緑の木々からは、残る夏に命を燃やし尽くす蝉の声が響いていた。
「お」
足元に、ポトリと一匹の蝉が落ちてきた。
まだ生きている昆虫を、オレはもう少しで踏んでしまうところだった。
「蝉、か……」
学生時代のことだ。
「いやぁだ、踏んじゃった!」
「え?」
オレは風間先輩の足元を見た。
乾いた蝉の死骸を、彼女は思い切り踏んづけていた。
「もうとっくに死んでるよ」
オレは冷静に言った。
「やだやだ、そういう問題じゃなくって、“虫を踏んだ”っていうのがイヤなの!」
「はあ」
オレは気の入らない返事を返して、蝉を踏んだミュールを気にして足早に歩く先輩の後を付いて行った。
風間先輩がオレに気があるってことは、薄々気がついていた。
それでもお互い何もないような振りをして、3つ学年の違うオレ達は、いい後輩先輩であり気の合う友人であり、というような関係で時々会っていた。
それも、もう10年近く前になる。
スーツ着用を強制されない職業柄、会社に戻っても皆ラフなスタイルでそれぞれが仕事をこなしていた。
オレも自分の席に戻り、立ち上げっ放しのパソコンでメールチェックをする。
「今日の午後まで、スタッフ揃えられそうか?」
斜め横に座る、入社が1年早い先輩がオレに声をかけてくる。
「ああ、何とか…。ギリギリってとこです」
「ギリギリなら、充分だな」
オレは先輩の言葉に笑顔で頷きながら、受信トレイに入ってくる文字をただ視野に入れていた。
『FW:真柴律香様の葬儀について』
会社がらみの冠婚葬祭ぐらいにしか思わずに、メッセージを開けてオレはだんだんと頭が真っ白になっていく。
「……………」
(真柴、律香……)
オレは携帯を出して、すぐに学生時代の同期に電話をかけた。
幸いなことに、相手はすぐに出てくれた。
「ああ、佐伯だけど……。あのメール、真柴律香って……」
オレが言い終わる前に、電話の向こうから友人の重たい声が返ってきた。
『……風間先輩だよ』
オレが大学2年だった頃、既に風間先輩は社会人だった。
先輩は3つも年が上だということを感じさせない程、ノリが若かった。
オレ達は気が合っていたんだと思う。
特に音楽の趣味が一致していて、よく色々なライブへ行った。
頻繁に一緒に飲みに行っていた時期もあった。
「斗馬、20歳でそんなにタバコ吸ってたら肺ガンになるよ」
「先輩だって、そんなに飲んでたら肝臓悪くするよ」
風間先輩は酒が強くて、飲むペースはいつも早かった。
同じペースで飲まないように気をつけていないと、こっちがつぶれてしまう。
その日は結構ヤバかった。
「大丈夫?斗馬?」
「……大丈夫なわけ、ないだろ…」
フラフラになってしまったオレは、その夜は風間先輩の家にお世話になることになった。
先輩は、一人暮らしだった。
「とりあえず、そこに横になって」
「あー、ごめん……先輩」
オレは部屋に着くと、先輩の言うとおりすぐにベッドに横になった。
どのぐらいそうしていたのか。
ふと気がつくと既に深夜で、オレの背中には風間先輩の気配がした。
さっきよりも少し楽になったオレは、先輩の方へ振り返った。
「………斗馬」
オレの名前を呼ぶ風間先輩。
その声は何だか甘かったし、オレを見る目も迷いがなかった。
先輩は大人で、オレの目の前にいるのは『女』だった。
「…………」
オレは、先輩にキスしてしまった。
そして、腕は先輩の体へと伸びていた。
酔っていて、頭がぼうっとしていたせいもある。
そして、こんな風に大人の女と二人きりでベッドにいた、という現実のせいもあった。
当時、オレは好きな子がいた。
それは風間先輩じゃなかった。
先輩のことが人として好きだから余計に、風間先輩のオレへの気持ちが痛かった。
オレはハっとして、自分の手の中にある感触に心底ビビリながら腕を引っ込めた。
「すみません、…先輩…」
「ううん……あたしこそ」
風間先輩は起き上がると、ベッドから降りた。
冷蔵庫を開ける音がする。
すぐに戻ってくると、缶ビールを手にしていた。
「飲む?」
「……無理」
オレは頭がガンガンしていた。
「…そうだよね」
先輩は笑うと、プルタブを勢いよく開けた。
オレはうつ伏せに寝返りをうった。
「あんまり飲むなよ……体壊すよ」
「大丈夫大丈夫、おやすみ、斗馬」
「……おやすみ」
暗いままの部屋で一人飲む先輩を薄目で見ながら、すぐにオレは眠ってしまった。
『お通夜 7時より 築地 ○○会館』
今夜は9時から本番撮りで、7時から打ち合わせが入っていた。
明日は1日中ロケで、とても葬儀に出る間はなさそうだった。
(風間先輩が、死んだ……)
全く信じられなかった。
通夜の時間や場所を見ても、急遽入った単なるアポイントの一つのような気がしていた。
その日の午後は心ここにあらずで、全く仕事にならなかった。
それでも何とか順調に打ち合わせは進み、午前中に段取りに走ったおかげでいつもよりもスムーズに仕事が流れていく。
オレはADを呼んだ。
「ちょっと急用で3、40分ぐらい出るから、よろしく頼む。撮りには間に合うようにするから」
ここから築地までなら電車ですぐだ。
「寺岡」
「ああ、佐伯か」
暑すぎるこの夜に黒い上下を着ているから、降りた改札口でたまたまいた友人をすぐに見つけた。
「忙しそうなのに、大丈夫か」
寺岡は自前のキチンとしたスーツで、会社から借り物で来たオレの雰囲気とはだいぶ違っていた。
「…ああ、抜けてきた。まだ仕事中」
「そうか」
そう言うと寺岡は歩みを早めた。
歩きながら、オレは聞いた。
「風間先輩、どうして亡くなったんだ?」
「肝臓らしい」
「………肝臓…」
シャレにならない、とオレは思った。
あれからずっとあのペースで飲んでいたんだろうか。
まだ30過ぎの風間先輩の通夜は、悲壮感で一杯だった。
結婚したばかりの旦那さんが落胆している様子は、本当に痛々しかった。
祭壇の、風間先輩の笑顔。
その写真の前にある棺には、死んだ先輩が入っている。
…そんな姿はとても見られなかった。
見たくなかった。
これが風間先輩を見ることのできる最後の機会だとしても。
目の前の現実は、まるでドラマの撮りのようだった。
実感が伴わないおかげで、オレは悲しみから逃れられたような気がする。
しかし相当へこんだ。
風間先輩には今の生活があって、そしてそれを取り巻く人々の悲痛な姿は充分オレを落ち込ませた。
「落ち込むなよ」
「あ?」
心を見透かしたような寺岡の一言に、オレは顔を上げた。
「佐伯、風間先輩と仲が良かったもんな」
「…………」
あの夜が過ぎ、それでもオレと先輩は何事もなかったようにしていた。
その後すぐにオレに彼女ができて、そして先輩も仕事が忙しくなり、自然と疎遠になってしまった。
最後に会ったのはいつだったんだろう。
その時、それが最後になるなんて思いもしていなかったはずだ。
結局その夜はスタジオで徹夜して、自宅には始発で帰った。
家には“でき婚”の妻がいて、子どもと一緒にまだ眠っていた。
―― 風間先輩にも家族がいた。
色々と想像して、ますます胸が痛くなった。
(10時には家を出ないと…)
オレの現実は容赦なく時間とともに押し迫ってくる。
携帯のアラームをセットして、二人が眠るベッドへと潜り込んだ。
今日も残暑というには酷すぎる暑さで、なのにオレは仕事で屋外にいた。
オレの知っている風間先輩がいつもオレに好意を持っていてくれたせいで、長い時間会えなくなっても、オレはずっと先輩に見守られているような気がしていた。
また会えた時に、『相変わらず、カッコいいじゃん』とか言ってくれるんじゃないかと思っていた。
だが結局、その機会はもう一生ないのだ。
(風間先輩……)
眩しすぎる空を見上げて、オレは溜息をついた。
「音声、もっと声拾って」
オレは指示を出す。
蝉の声がうるさかった。
夏の終わりに繰り返される情景。
「……ちゃんと、毎年、思い出してやるから」
いつもオレに親切にしてくれた彼女の姿は、オレの中では20代のあの頃のままだ。
先輩が今もいてくれたなら、いつかどこかでまた会っていたのかもしれない。
だけどいつか会えると思って、会っていなかったのかもしれない。
ただ先輩がで元気で生活してくれている事が、存在してくれているという事が、オレを安心させてくれていた。
今は喪失感ばかりだ。
(しかし……やっぱり、あの夜はヤっとくべきだったか……)
どうなんだろう。なあ、先輩。
今更に、心の中で風間先輩に何度も語りかけた。
『斗馬』と呼ぶあの優しい声を思い出す。
話したい事は沢山あった。
〜K先輩へ想いを込めて(2007年夏)
Special Thanks:ほっけさん、しんりさん、まいまいさん、はるひさん