桐柳からの突然の告白に、オレは心底戸惑った。
彼女の感じる手、『試してみよう』って…あの日公園で、オレは桐柳のその手に触れた。
いや、触れるだけじゃなかった。
指にキスしたし、口に含んだりもした。
感じるその時の桐柳の表情……学校で見せる彼女とは全く違っていた。
オレも、みんなも知らない彼女の一面。
それはとても魅力的で、…普段の凛とした感じの桐柳の雰囲気も良かったが、あの日の生々しい彼女に、オレは完全に魅了されてしまった。
あの後、もっと近づけると思っていた。
それでも桐柳からはメールすら来なかった。
オレも調子に乗ってあんなことをしてしまったから、どこか後ろめたいような気持ちがあった。
『また会って、続きを…』なんて、そんなこと言い出せなかった。
ずっと桐柳佳奈美のことを考えていた。
同じクラスだったし、学校に行けば顔を見ない日はない。
それなのに教室の中で話し掛けても、社交辞令みたいな会話で終わってしまう。
オレの中で、桐柳に対して募る想いと裏腹に、半ばあきらめのような気持ちも生まれてた。
何となくだが、彼女がオレに対してそっけないような気がしていた。
あまり考えたくなかったが、もしかして彼女を怒らせてしまったのかもしれないと、自分を責めるような思いを時に抱いてしまう。
オレは桐柳からのアクションを、待っていたんだと思う。
…モヤモヤとした想いを、毎日抱えていた。
桐柳のいない陸上部。
彼女のいない風景が、日常になっていく。
そんなある日、オレは城嶋先輩から告白されたのだ。
「…今すぐに、返事しないとダメですか」
オレは城嶋先輩に言った。
先輩はすごく困った顔をしながらも、慌てて首を振った。
「ううん…年上のわたしが、こんな事…急に言ってごめんなさい…
…だけど………返事は早い方がいいかな」
思いつめたようにため息をつく先輩。
普段の城嶋先輩は控えめな人だ。
それでも何となくだったが、以前からオレに対する好意みたいなものは感じていた。
だけどきっとそれは後輩に対する親切心から来るものなんだろうと、オレは思っていた。
先輩は、普通の人だ。
見た目も、中身も、いい意味で普通。
しかしその平凡っぽい感じが、結構男の好みをそそったりする。
オレはぐらっときた。
このまま桐柳との進展もなくて…そして城嶋先輩はキライなタイプじゃない。
オレにとっては『彼女』も長いこといなくて、…日々自分の欲望を持て余していた。
運命かもしれないって、思った。
先輩に告白されたその夜、…あれ以来初めて、桐柳からオレ宛にメールが来たんだ。
朝、メールに気付いて、オレは本当にびっくりした。
そして素直に桐柳が部活に復帰することが嬉しかった。
また陸上をする彼女の姿が見られる。
部活にいけば、教室よりももっと近い距離で彼女を感じることができる。
「部活、復帰するんだな」
オレは教室で桐柳を見つけるとすぐに声をかけた。
桐柳も嬉しそうにしていた。
そんな顔を見ると、今まで彼女なりにやっぱり沈んでいたんだなと思う。
一見クールに見える桐柳の笑顔は、何だか特別に価値があるように感じた。
少なくともオレにとってはそう思えた。
次の週が来るのが待ち遠しい。
普通にメールしたり、電話したりできればどんなにかいいのにと思う。
だけどオレ達は先日のことがあったとはいえ、実際には部活が一緒の単なるクラスメートだった。
『友だち』と呼べるほど親しいとも、…どうも思えない。
(…桐柳のこと……好きなのか…?…オレ)
オレに告白してきた城嶋先輩のことを思い出した。
先輩はキライじゃなかったが、今まで特に意識していたわけじゃない。
桐柳からメールが来ただけで、オレはあいつのことばかり考えていた。
(先輩のことは、ハッキリしたほうがいいよな)
何となく勿体無い気もしたが、そんな打算的に動けるオレじゃなかった。
どちらにしても桐柳へのこのモヤモヤとした気持ちを持っている限りは、曖昧にすれば先輩を傷つけるだけだ。
(はあ…何て言おうか…)
オレはてんでこういう事に慣れてなかった。
月曜日、放課後。
久しぶりにグラウンドで彼女を見る。
Tシャツから出る腕は相変わらず白く細くて、背筋を伸ばして立つ桐柳はやっぱり独特の凛とした空気感がある。
オレは憧れに近い感情さえ感じた。
走る彼女は颯爽としていた。
秋のまだ暑い校庭、桐柳の周りだけ涼しく見えた。
城嶋先輩が視野に入る。
それでも、オレの目が追っていたのはあいつだった。
部活に復帰したとはいえ、桐柳との会話が急に増えるわけではなかった。
オレは思い切って次の部活帰り、桐柳と同じ電車に乗った。
空いた各駅停車の車内。
オレはつり革を掴んで桐柳の隣に立つ。
「水城くん……?」
彼女は驚いて、オレを見る。
その目には戸惑った様子が感じられた。
こんな風に声をかけられて…もしかしたら彼女にとっては迷惑かもしれないと、
そう考えて早くもオレは少し後悔した。
学校の外で二人きりで話すのは公園で会ったあの日以来で、急に緊張してくる。
最近の陸上部の話とか、他愛もない世間話でとりあえずその場を濁した。
彼女の家までの道を、二人で歩く。
桐柳の表情はさっきからずっと固いままで、さすがにオレも困ってきた。
今日、こんな風に強引に一緒に帰ったりして…もしかして桐柳の気分を悪くさせたんじゃないか。
そして、あの公園での出来事は、…やっぱり怒らせてしまったんじゃないか。
オレの中でマイナスの思考ばかりがぐるぐる回る。
「……もしかして、…あの時のこと、怒ってない?」
ずっと気になっていて、…とうとうオレは聞いてしまった。
「えっ…」
桐柳は驚いた顔でオレを見返してきた。
「ううん!全然!」
彼女は目の前で手を振り、そして一緒に大きく首を振って言った。
桐柳の見開いた目、やっぱり睫毛が長い。
運動部だっていうのに色も白いし…改めてキレイな子だなと思う。
久しぶりにまともに目が合った気がした。
「…そうかな」
オレは思わず彼女から視線をそらした。
――― 沈黙が続く。
さっきのまでトーンとは全く違った、彼女にしてはデカイ声でおもむろに桐柳が言った。
「あの、水城くん」
「えっ」
急に大声を出されて、オレはビックリして彼女を見た。
桐柳は真剣だ。
オレに重大なダメージを与える一言がその唇から出てくるんじゃないかと思って、オレは一気に緊張する。
しかし彼女の言葉は、まさに予想外だった。
「あたしと、…付き合えないかな」
(はあ?)
人は自分の予想を遥かに超える事が起こると、それをすぐに現実とは認められないものだ。
オレは、聞き間違いかと思った。
何度も目をまたたいて、桐柳を見た。
彼女の様子から、今の言葉は……確かに…現実。
そこまで理解するのに、頭の中は完全にスロー再生状態だった。
(付き合う……って)
「ちょっと、考えさせてもらってもいい…?」
桐柳の言葉と、同じぐらい信じられない言葉が…オレの口から出た。
その後、彼女と何を話したか全く覚えていない。
自分の部屋に帰って、改めて考えてみる。
(………)
桐柳が、オレと付き合いたい………?
(ウソだろ……)
彼女からその言葉を聞く直前まで、オレはもしかしたら彼女に嫌われてるんじゃないかと思っていた。できるだけ考えないようにしていたが、桐柳のそっけない態度に接していたらもうそれは確定的なんじゃないかと感じていた。
それなのに。
この展開に気持ちが全然付いていってなかった。
(バカだなあ、オレ…)
なんで即答しなかったんだろう。
結局、オレは桐柳と付き合いたいと思ってたんじゃなかったのか?
どうしてすぐに頷けなかった?
(オレ、桐柳のこと、好きなのか……)
ずっと考えていた。
実際にはあれ以来彼女との距離が縮まらなくて、オレの心も少し引いてた。
自分が桐柳を好きになってしまうことに対して、正直ビビっていた。
(桐柳佳奈美………)
陸上部で走る姿、教室での普段の彼女、そして感じる顔…
頭の後ろの方で色々な彼女が巡ったが、その夜オレが思い浮べていたのは今日の桐柳だった。
「なあ、桐柳」
次の日の部活の後、直接彼女に声をかけた。
桐柳が陸上部に復帰するまで、ずっと抱えていたモヤモヤとした感じ。
それが昨日の出来事で、自分の中で混沌としていた気持ちがさらに渦を巻いてしまった気がする。
「あぁ、水城くん……」
ちょっと怯えたような素振りを見せて、ジャージ姿の桐柳は立ち止まった。
「着替えたら、ちょっと教室で待っててくれないか」
「…うん」
頷くと、桐柳は足早に更衣室へ向かって行った。
ふと視線を感じて振り向くと、城嶋先輩がいた。
「モテてるね、水城くん」
作り笑顔で先輩はそう言った。
廊下には他の生徒もまだたくさんウロウロしている。
「…先輩」
こんなとこで言うなんてヒドイかもなって思ったが、絶妙のタイミングだった。
オレは先輩に一歩近付いた。
「この前の返事……」
オレが言うか言わないかってうちに、城嶋先輩の表情は曇った。
そんな先輩の顔を見てオレは一瞬ひるむ。
しかし、こういうことハッキリしないのはイヤだった。
特に、……これから桐柳と話そうと思っているだけに。
「すみません」
オレは頭を下げた。
それはまさに後輩が先輩に対する礼って感じだった。
「うん、…分かった」
頭を上げると先輩の悲しそうな目と、かち合う。
「すみません」
オレはまた言った。
「部活、頑張ってこうね」
いつもの優しい笑顔になって、城嶋先輩はオレから離れて行った。
「…………」
先輩がいい人なだけに、ものすごく悪いことをしたような気になる。
…だけど、仕方がない。
………オレは。
「なんだよ、水城、教室戻んのか?」
今日の当番の鈴木と廊下ですれ違う。
「忘れ物!すぐ帰るって!」
オレは走りながら答えた。
「早く帰れよ!もうお前が最後なんだからな!」
鈴木はめんどくさそうに後ろから言った。
「………」
教室のドアを開けると、誰もいなかった。
「はあ…」
走ってきたオレはちょっと息を切らせながら、音を立ててカバンを机に置いた。
「水城くん」
壁際から声を掛けられて、オレはビビった。
「あ、ああ…いたのか」
誰もいないと思っていたから、油断していた。
「鈴木くんが見回りに来たし」
ドアの死角から、ゆっくりと桐柳が出てきた。
「………」
桐柳と目が合う。
彼女は顔を反らした。
鈴木の性格からしてもう来ないと分かっていたが、オレは落ち着かなかった。
すでに薄暗くなってきた教室に二人でいる。
ぐずぐずしていたら、完全に暗くなってしまう。
まわりくどい文句は、思い浮かばなかった。
「昨日、桐柳が言ったこと」
彼女とは机4つ分ぐらい離れていた。
桐柳が恐る恐るオレの方を見る。
オレは一呼吸置いた。
「オレと…付き合いたいって……マジ?」
やっぱり確認せずにはいられなかった。
オレは桐柳を見ていた。
彼女は左手を机に置いて、オレの方へ体を向けた。
この場になって、昨日から桐柳の手のことを考えていなかったことに驚いた。
「マジだけど」
あっさりした声で彼女が言った。
桐柳が普段クールに見えるのは、あまり感情が表に出ないせいかもしれない。
「……なんで」
オレは言った。
思わず口をついて出ていた。
(『なんで』はないだろう…)言ってしまって我ながら思った。
桐柳に好かれてるっていう気が、どうも今ひとつしない。
それなのに急に『付き合って』って言われたから、オレは混乱したんだ。
(桐柳は、オレのこと……好きなのか?)
昨日からずっと考えていた。
オレは彼女のことが好きなんだろうか。
彼女はオレのことが好きなのか。
『好きになる』って、どういうことなのか……。
オレを見る桐柳の眉間に皺が寄る。
自分の無神経な発言を撤回できるものなら、そうしたかった。
『付き合って』って言ったのはあいつの方で、自分はそれに返事をする状況なのに、オレは桐柳の反応をまた恐れていた。
こんな状況でこんなこと言って、今度こそ嫌われたかもしれない。
「水城くんのこと……」
桐柳が口を開く。
その唇を見て、オレは痛感する。
(オレはただ、彼女から『好きだ』って言われたかったんだ…)
鳥肌が立つほど今更それを実感して、突然心臓がバクバクしてくる。
…彼女から『好きだ』って言われたい。
オレは心底その言葉を望んでいた。
そしてその願いの大きさで、同じ分だけオレの中にある彼女への想いを知らされる。
「あたし、水城くんのことばっかり毎日考えてる」
「……」
オレは思わず息を呑んだ。
彼女はまっすぐオレを見ている。
「もっと一緒にいたいよ」
その真面目な声は、オレの心にガンと響いた。
「……桐柳……」
今、彼女が言ったこと。
オレもそう思ってたんじゃないか。
「……」
オレは彼女に近付いた。
桐柳に『好きだ』と言われたい気持ち。
それは裏返しで、オレの彼女への想いそのものだ。
オレは言った。
「……好きだよ…」
思わず腕を伸ばして、彼女を抱きしめていた。
運動した後の彼女の髪からは、色っぽい匂いがした。
「水城くん……」
固まった彼女の腕が、そろそろとオレの背中に回る。
「あたしも…好き……」
オレの腕の中の小さい声。
桐柳を見た。
彼女の視線もゆっくりとオレの方へ上がってくる。
オレは桐柳にキスした。
「…ごめん、昨日すぐに返事できなくて」
オレは両手を彼女の肩に置いた。
「ううん」
桐柳は首を振る。
暗くてよく分からなかったが、涙ぐんでいるように見えた。
「良かった……」
彼女はそう言って、両手を自分の口元に持っていった。
オレはそんな桐柳がいじらしくて可愛くて、また唇に触れたい衝動にかられる。
「桐柳……」
キスしようとして、全く無意識にオレは彼女の手を両手で掴んでいた。
「ああぁぁっ!!」
唐突に彼女が大声を出した。オレに手を握られたまま、桐柳はオレから体を引いた。
オレはビックリして桐柳を見た。
一瞬何が起きたのか分からなかった。
しかし、すぐに思い出した。
触るだけで異常に感じてしまう彼女の手。
「ご、ごめん!」
オレは慌てて彼女のその手を離した。
「はあ、はぁ……」
桐柳は肩で息をしながら、自分の両手をギュっと握り締めて後ずさりした。
「……び、びっくりした……」
オレをちょっと睨むような目で見ながら、桐柳は言った。
「オレの方だよ、…驚いたのは」
突然に離れて行った彼女の温もりに、急に我に返る。
「…ごめん……、もう……ヤだぁ……」
桐柳が情けない声を出した。
「やっぱり、全然治ってないんだな」
彼女の手が、そうだってこと。すっかり忘れていた。
桐柳と公園で実験したあの後は、こんな性癖の彼女だからこそ気になって仕方がないのかもしれないと考えたこともあった。
しかし今、彼女の手のことなんてすっかり忘れていた。
(結局、普通に…惹かれていたんだな)
気持ちに理屈をつけようとして、色々と考えていた自分がおかしくなってくる。
教室はもう暗くなっていた。
早く出ないと、完全に門を閉められてしまう。
「もう、行かないとな……」
二人で教室を出た。
歩きながら話す。
その距離は、昨日よりずっと近かった。
オレはそれをすごく嬉しく思った。
「今度さ……」
手を繋げないのが、もどかしい。
「うん?」
桐柳がオレを見る目も、昨日よりずっと素直な感じがして可愛かった。
「また、『手』のこと、…改めて考えてみよう」
「…ん」
彼女は恥ずかしそうに前を向いた。
オレは言った。
「二人きりになれるとこで」
「………」
一瞬にして真っ赤になって、桐柳はオレを見た。
――― そして、小さく頷いた。