好きという気持ちだけで全てうまくいけばいいのに

●● 1 ●●

   
付き合い出した頃の、あの、世界中がキラキラして見えるような気持ち――
それをどんなに時間が経っても無くしたくないと思う、っていうのはやっぱり無理なんだろうか……



(もう、なんで今日に限って!)
桃子は百貨店のエスカレーターを足早に登った。
時計の電池交換は大体が上のフロアにあって、桃子は止まってしまった腕時計を左手につけたまま、とにかく急ぐ。
「すみません、お願いします。時間がないので」
息をきらしながら窓口へ時計を渡すと、20分かかるという店員にもっと早く替えるように強引に交渉した。

「オレはこれがいいな」
「ええー、こんなに高いのがいいのぉー?」
桃子の後ろで、若いカップルが時計を見ていた。
上のフロアにある時計は宝飾品と一緒に並んでいて、入り口に近い売り場のものとは値段の桁が違う。
(ああ、早く早く…)
特に時間を潰すということもせず、桃子は窓口の前でじっと時計が上がってくるのを待っていた。

今日は、雅人と約束をしていた。
彼とこうして会うのは、2週間ぶりになる。
雅人とは同じ会社で、フロアは違うが時々顔を合わせることはあった。
しかしその時は挨拶程度で、とても恋人同士としての会話などできる状況ではない。
(待ち合わせ、ギリギリになっちゃう……)
桃子は携帯を取り出し、彼にメールを打った。
雅人は几帳面な男で、時間に遅れたりするのを嫌うのだ。
「オレ、やっぱりこれが欲しい。金貯めて買おうかなマジで。マジですげえ欲しい」
「本気?柚琉にお金なんて貯められんのぉ?」
桃子が後ろの声にチラリと目をやると、女の子の方は制服を着た高校生だった。
(最近の若者は金あるなぁ…)
ため息をつきながら姿勢を戻すと、時計を持ってにっこりとした店員と目が合った。


「ごめん!ちょっと遅れちゃった!」
桃子は時計の電池交換を終えると、ここまでほとんどダッシュで来た。
ニュースが流れる電光掲示板の前で、既に待っていた雅人はそんな彼女を見て笑うと、優しい声で言った。
「いいよ、全然。こんなの遅れたうちに入らないし」
彼が遅刻することは滅多にない。
「それより、この前はごめん」
「ううん、仕事だし…しょうがないよ」
桃子はできるだけ明るい声を出して答えた。
雅人は、遅刻するような場合は予定そのものをキャンセルするタイプだ。
その事を桃子は分かっていたつもりだったが、実際にキャンセルが続くと落ち込むこともある。
桃子はたとえ多少時間がずれたとしても、彼に会いたいと思っていた。
それなのに、雅人はそう考えていないという事を悟ると辛くなる。
そんな時は本当に仕事なんだから仕方がないと、自分自身に言い聞かせるようにしていた。
「今日、予約してくれてたんでしょう?楽しみー」
久しぶりに恋人に会えて、桃子は嬉しかった。
「前に販売店の人に教えてもらったんだ。なかなかいい店だったよ」
エレベーターを降りると、すぐ前が店の入り口だ。
黒い服の男性が、二人に軽くお辞儀をしてくる。
「いらっしゃいませ」
店員の態度と同じように店の作りも黒を基調としていて、とても落ち着いていた。

「大阪の方がバタバタしててさ」
雅人は皮のジャケットを脱いで席に置くと、フレームの固い眼鏡を軽く直した。
耳にかかる程度に伸びかけた黒い髪が彼の雰囲気に合っていて、とてもお洒落に見える と桃子は思う。
「また出張?」
「そうだな…。船場の本社に金曜から行って、土曜出勤して打ち合わせして」
「大変ね……」
また週末に会えないのかと思うと、桃子はため息が出た。
雅人の担当している取引先が、関西の方で人事がごたついているという噂は桃子も知っている。
(仕方がない、か……)
しばらくお互いの仕事の話になってしまう。
そして自然と社員の噂話。
雅人と一緒にいられるこの時間を桃子は嬉しく思う反面、もっと違った風に過ごしたいと思う気持ちもあった。


「じゃあ、また会社で」
桃子のマンションの前で、雅人は去ろうとする。
「ねえ、……少し、寄っていかない?」
そう言いながら、彼にすがりつきたくなる衝動を桃子は堪えた。
「…………」
笑顔を返しながら、雅人は桃子へ手を伸ばした。
「家に入ったら、終電じゃ済まなくなるだろう?」
「………でも…」
雅人に聞こえるかどうか分からないほどの小さな声で、桃子は言った。
彼の言葉の意味するところに恥じらいを感じながらも、何もなくてももう少しだけでいいから一緒にいたいのにと桃子は思う。
「それじゃあ」
雅人は桃子に軽くキスすると、小さく手を振って足早に歩き出した。

(も少しだけでいいのに……)

彼の後姿を見送りながら、桃子はまた ため息を呑みこむ。
26歳の彼女から見ると、4つ年上の雅人はとても大人に思えた。
責任感がありリーダーシップをとれるタイプの雅人は、桃子にとっては頼れる彼氏だった。
会社に入ってしばらくしてから交際が始まり、今では3年が経つ。
付き合いはじめの頃は、もっと長い時間を二人で過ごしていたし、雅人の態度も違っていたように桃子は思う。
最近ではすっかり『二人で会う』というデートのイベント性が、どんどん下がっている気がしていた。
長い時間会わなかったりすることも、何度となくある。
桃子としては、雅人に会いたいと心の奥では思っているのに、いつからかそれを表に出せなくなっていた。
そうして時間を重ねる毎に、感情を抑えるあまり今では感動まで失っている。

(こんなものなのかな……大人の付き合いって)

何か大事なものを、手の中から零している気がした。


「朱音ちゃん、結婚するんだって」
「えっ、三沢さんが?」
隣の席からの智沙の言葉に、桃子は驚いて顔を上げた。
三沢は同じフロアの事務職の女の子で、昨年入社したばかりだ。
「は、早いね……。もしかして、相手って」
「そう、4階の相馬さん」
智沙は完全に手をとめて、桃子の方を見た。
桃子の勤めているアパレル会社は社内交際がとても多く、そしてその流れで社内結婚が多い。
「私もそろそろ考えようかなぁ」
「えっ、智沙も?」
桃子は急にドキドキしてきて、じっと智沙を見つめてしまう。
「だーってさ、来年するとしてももう27だよ。今年の6月なんて何回結婚式に行ったと思う?何だか焦ってくるよ」
ため息交じりに智沙は言った。
「焦る、なんて言わないでよー。こっちこそ焦るよ」
昨晩の雅人のことを思い出して、桃子は思わず胸がギュっとなる。

雅人はもう30歳になっている。
結婚を意識するには充分な年齢だと、桃子は思う。
やっと慣れてきた仕事は楽しかったしすぐに辞めてしまう気はなかったが、結婚するかしないかという話になるとまた別だ。
(結婚………)
結婚すれば、今のように『会う』ために労力を使うこともない。
(雅人と、結婚したいの…?私……)
なぜかピンとこない自分がいた。

―― 会いたいと思う時に会えない。
相手が会いたいと思ってくれているのか、自信が持てない。

そんな気持ちを見ないようにと、桃子はいつからか心に蓋をしていた。
最近はその歪みのせいか、雅人との交際に違和感を感じることが時折あった。


昼が過ぎた平日の地下街を抜け、百貨店のエスカレーターに乗って上へ向かう。
担当しているブランドのショップが入ったフロアで降りて、携帯のメールを気にしながら桃子は歩いた。
「お疲れ様でーす」
先に声をかけてきたのは店長の佐藤だった。
「こんにちは、お疲れ様です。どうですか?」
桃子も佐藤へ笑顔を返した。
背の高い佐藤の後ろに、見たことのないアルバイトの子がいた。
すぐに目が合って、桃子は彼にも会釈する。
長袖Tの上にオレンジ色のTシャツを着た彼は、ニヤニヤしながら桃子を見てくる。
「……ねえ、清勝さん、彼女が担当の『桃子ちゃん』?」

(『桃子ちゃん…?』)

初対面の、自分よりもずっと若い男の子にいきなり名前にちゃんづけされた。
「あの……」
桃子が口を開きかけた時、佐藤が重ねてきた。
「すみませんごめんなさい、こいつオレの後輩で。慣れ慣れしくって…」
佐藤は困った顔をしながら、バイトの子の頭をこづく。
彼は悪びれた様子もなく、桃子にまた話し掛けてきた。
「ねえ、お昼ご飯、食べたの?」
「えっ?」
一瞬何を言われているのか分からなくて、桃子は唖然として彼を見た。
「ねえ、食べた?」
「ま、まだだけど……」
つい彼の調子に乗せられて、桃子は答えてしまった。


「じゃあ、行こう!清勝さん、オレ昼休憩行って来まーす!」
「えっ、ちょっと、ちょっと……ええっ?」

桃子は彼に強引に手を引かれて、ショップから出ていた。
「おい!柚琉!」
店で叫ぶ佐藤の声がどんどん遠ざかってしまう。

百貨店内を不自然な姿勢で歩く二人は、かなり目立っていた。
ショップの間を抜けフロアの端にある階段の前で、やっと桃子は負けずに彼の手を引っ張って、立ち止まった。
「ちょっと何ー?、……何よっ何なのっ?」
担当ショップのバイトの子だというのに桃子は素で声を荒げた。
桃子の手を、まだ彼はギュっと握ったままだった。

「オレ、青木柚琉。『ゆずる』でいいからさ」

細くて背の高い、年下に見えるその男の子は髪の色に負けない明るい笑顔で言った。
「な、何よ……」
「知ってるよ、佐藤店長とかが噂してたから。担当の桃子ちゃんは可愛いって」
「…………」
店長に噂されてるという事を聞いて、桃子は無意識に反応して赤くなってしまう。
「話聞いて、会ってみたかったんだよ。とにかくさ…」
「あっ、……えっ?」
桃子はまた彼に手を引っ張られてしまう。
「まあまあとにかく、一緒にご飯食べようよ」


「あのねぇ……」
「柚琉でいいって」

完全に彼のペースだった。
ワンフロア下がったところにあるカフェ。
白いテーブルを挟んで 柚琉と名乗るその少年と向かい合って座っていた。
 

ラブで抱きしめよう
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