「あの……ねえ」
桃子はため息をついた。
見知らぬ男性にこんなことをされたのなら、普通は単純に拒否するだろう。
しかし、彼は納品先のメーカーの店員だ。
あんまり無礼な態度をとることもできない。
「だから、柚琉でいいよ」
彼は桃子とは正反対で、初対面とは思えない態度で接してくる。
(…なんでタメ口なの?)
桃子は、軽く切れそうになる気持ちを抑えた。
彼は若く見えた。どうみても桃子よりも年下だった。
「あの、私、仕事中なんだけど」
桃子のその言葉に、メニューを見ていた柚琉は顔を上げる。
「じゃあ、これも仕事の一環、ってことで。…ここのランチで、い?」
「………」
桃子が呆れて黙っていると、柚琉は勝手に二人分オーダーしてしまった。
「佐藤さんの、後輩なの?」
この状況に半ば諦めて、桃子も普通に話した。
「そう、1ヶ月前からここで働いてたんだ。
先輩、担当が可愛い可愛いってよく言ってたからさ、どんな人が来るのかと思って」
「………」
前評判で可愛いと言われていたというのを聞いて、桃子は思わず赤面してしまう。
佐藤が自分のことをそんな風に言っていたというのも恥ずかしかったし、実際に今日対面した柚琉にいきなりそういう目で見られているというのも、なんだかバツが悪い。
彼の視線を感じる。
「想像してたよりも、ずっと可愛かった」
「……えっ」
一瞬、顔がニヤけそうになる。
桃子はなんとか抑えた。
(可愛い、なんて言われたのって……いつ以来…?)
最近自分とは無縁のその言葉に、浮ついた気分になってしまう自分が情けなかった。
「名刺、頂戴よ」
「あっ、…ああ…」
店に入っていきなり手を引かれたり、可愛いって言われたり名刺って言われたり…
瞬時に変化するこの展開に、桃子は2呼吸ぐらい遅れて反応してしまう。
慌ててバッグから名刺入れを出した。
「担当の、羽生です。……よろしく」
立たずにただ両手を伸ばして、柚琉へと自分の名刺を差し出した。
柚琉は名刺を手にとって、まじまじと眺めている。
「………」
桃子はなんとなくイヤな予感がする。
「じゃあ、『桃ちゃん』。こちらこそよろしく」
柚琉は、明るい笑顔で言った。
(さっきは桃子ちゃんで、もういきなり『桃ちゃん』?)
桃子の予感は的中した。
「お疲れ様ですー」
会社に戻ってからすぐ、桃子は雅人にメールをした。
『今度は、いつ会えそう?』
仕事が終わって、部屋に着いても、まだ彼からの返信は来ていなかった。
いつからか、電話するのにも迷う。
(……なんだかな…)
あまり考えないようにしよう、と桃子は思った。
ため息をついて頭を振る、ふと、今日の『柚琉』のことを思い出した。
(若かったなあ……)
自分だってまだ20代なのに、彼の元気さをとても眩しく感じた。
白い店内で、昼の陽射しで、余計に明るく見えたのかもしれない。
(なんか、…悩んでない!って感じ…)
初対面から、すごく失礼な態度をとられているのに、彼を責める気持ちは不思議となかった。
それどころか、『柚琉』は許される雰囲気を持った男の子だった。
結局、彼のペースにはまったまま一緒に昼食をとり、その間ずっと喋ってしまった。
(話し易い子だったな…)
柚琉のことを思い出して、桃子の気持ちはなぜか少し和んだ。
3日後、まだ暑さを感じる秋だというのに、来年度の夏モノの大きな展示会があった。
自分の関係部署や取引先が一斉に集まる今日、桃子も自分の担当ブランドの設営や運営にバタバタと会場内を走り回っていた。
(あれ…?)
遠くに、明るい髪の色が見えた。
(あれは……)
頭で認識する前に、雰囲気で彼だとすぐに分かった。
(『柚琉』……)
10月にしては暑すぎる日だった。
周りのスタッフがしっかり秋冬物を着込む中、白いTシャツにGパンで、彼は大きなダンボールを抱えて急ぎ足で歩いていた。
桃子は手をとめて、しばらく彼を見た。
柚琉は荷物を置くと、その場にいたスタッフから何か話し掛けられてすぐに来た方へ戻る。
そこで目が合った。
「桃ちゃん!」
「もう……」
予想外に大きな声で名前を呼ばれてしまい、桃子は頭を抱えた。
柚琉は走ってくる。
「桃ちゃん、来てたんだ」
そう言うと彼は、すごくいい笑顔で桃子を真直ぐ見つめてきた。
(眩しい……)
この薄暗い会場で、やっぱり柚琉は眩しかった。
「今日は手伝いなの?」
桃子は平静を装いつつ、聞いてみる。
「うん、キヨ先輩に頼まれて。今日はここでバイト。ほぼ肉体労働ってやつ?」
柚琉は首にタオルを巻いていた。
会場内は蒸し暑くて、確かに少し動いただけで汗をかいてしまう。
「…大変だけど、…よろしくお願いします」
桃子はできるだけよそよそしく答えた。
この子のペースになると、自分まで砕けてしまうということが先日のことでよく分かっていた。
「あーーーい」
柚琉は桃子にまた眩しい笑顔を返すと、足早に会場から出て行った。
(清々しい子だ……)
態度も大きかったし馴れ馴れしいし、どうかなと思うところは確かにある。
けれど彼が悪い子ではなさそうだという事を、桃子は本能的に感じた。
その後はずっとバタバタして、桃子は柚琉の事をすっかり忘れていた。
展示会の1日目が終わり、初日の軽い打ち上げが始まったときだ。
壁際にもたれている、茶髪の少年が目に入る。
「ちょっと、すみません…」
関係者との談笑の和を外れ、桃子は柚琉の方へと向かった。
「青木くん…?」
壁に寄りかかった柚琉は、何か変だった。
「ああ、桃ちゃん……」
つらそうな目で桃子を見ると、すぐにまた眉間に皺を寄せて下を向いてしまった。
「大丈夫?なんか顔色悪いみたいよ?」
「うん……ちょっと気持ち悪い」
頭を下げたまま、柚琉は少しフラついた。
「ちょっと、大丈夫?」
会場内は空気が悪かった。
それに皆立ち話をしていて、落ち着いて座れるようなところがない。
「とにかく、ここを出ようよ。歩ける?大丈夫?」
「うん……大丈夫」
柚琉はフラフラしながら、桃子と会場の外へ出た。
展示会場を出て建物内を少し歩くと、中庭がある。
桃子は柚琉を引いて、外へと出た。
夜の風はひんやりしていたが、幸い今日は暖かい日だった。
「どうしたの?」
ベンチに並んで腰を下ろすと、桃子は柚琉の様子を覗った。
「……ビール飲んだ」
「…そんなに?こんなになるまで?どれだけ飲んだの?」
まだ打ち上げは始まったばかりだったのだ。
「これぐらい」
柚琉が親指と人差し指で作った空間は、3センチぐらいだった。
「えっ……それだけ?」
「オレ、すーーーごい、酒、弱くて」
(弱いって言ったって……そんなに??)
桃子はビックリして、改めて柚琉を見た。
彼は本当に具合が悪そうで、顔色も良くなかった。
「大丈夫?」
「うん………ちょっとの間だけ、横になっていい?」
「あ、…うん」
桃子は横にずれた。
「すぐ直ると思うから……」
柚琉は桃子と反対の方向に頭を向けて横になりかけるが、背の高い彼がそうしようとすると、このベンチはすごく狭かった。
「……あ、…あの、ここで、いいから」
「えっ」
柚琉は横になりかけていたところを、またゆっくりと起き上がった。
「…しょうがないから。いいから」
桃子は柚琉の頭に手を伸ばすと、自分の膝へと導いた。
「ごめん、桃ちゃん…」
「…いいから、喋らないで休んで」
桃子は柚琉を膝枕した。
「ありがとう……」
そういうと、柚琉は黙った。
中庭の外灯の灯りはここへ来たときは薄暗かったのに、だんだんと目が慣れてきている。
植栽がまだ緑の大きな葉をつけていた。
下を見ると、柚琉の肩が大きく動いている。
日中の陽射しの中で見ると金髪かなと思うほど明るい髪が、揺れる。
夜風は結構冷たいのに、なぜか寒くなかった。
(変なの……)
膝の上にある体温を感じて、桃子は不思議な気持ちになっていた。