月曜日の朝、桃子は柚琉の腕の中で目を覚ました。
(ああ、会社に行かなくちゃ……)
自分よりも遅い時間から学校が始まる柚琉を、起こさないように桃子は静かに身支度を整えた。
(昨晩、言っておけばよかったな…)
ぐっすりと眠っている柚琉を起こすのは忍びなかった。
昨晩は結局ベッドに雪崩れこんで、そのまま眠ってしまったのだった。
「柚琉……、柚琉」
「ううん……」
柚琉がゆっくりと目を開ける。
桃子は柚琉を見て微笑んだ。
「おはよう、柚琉」
「……おはよう…桃ちゃん」
寝ぼけ眼のままで、柚琉はきちんとした桃子の服装を見て続けた。
「……もう会社、行くの…?そんな時間か…?」
時計を見ようとして柚琉は重くだるい体を半分起こす。
きわどいところまで布団がずり落ち、彼の細い体が晒される。
「うう、さぶ……」
慌てて布団をひっぱりあげる柚琉に、桃子は手を伸ばす。
柚琉はきょとんとして、桃子の手を見つめた。
「これ、渡しておくから。私もう行くけど、柚琉はまだ寝てて」
「……これって」
開いた彼女の手の中にある鍵を見て、柚琉の目が覚める。
「じゃ、もう行くから。ゆっくりしててね」
ベッドの脇で中腰の姿勢から、桃子は立ち上がった。
柚琉は布団を握り締めながら慌てて、また体を起こす。
「これ、どこに置いておいたらいい??」
「えっ…???」
桃子は柚琉の言葉の意味がすぐに分からなかった。
しばらくして察すると、微笑んで答えた。
「柚琉が持ってて。……それ、あげるよ」
「くれる、って…くれるの?桃ちゃん…いいの??」
柚琉は思わず合鍵をギュっと握り締めた。
「うん、じゃあ、行ってくるね」
桃子はにっこり笑うと、柚琉に背を向けて玄関へと小走りに去っていった。
桃子の部屋で一人、柚琉は全裸のままベッドで桃子がくれた鍵を手にのせ、じっと見ていた。
握り締めていたせいで、鍵は柚琉の体温を移していた。
「これって、合鍵だよな……」
朝からテンションが上がってくる。
「なんかスゲー嬉しいんだけど!」
桃子の香りがする枕に頭を沈め、腕を伸ばして掴んでいる鍵を改めて見る。
「……やっぱり、スゲー嬉しいかも……」
(何か、『彼氏』として認められた、って感じじゃねえ?)
ジワジワと喜びが増してきて、鍵にキスしたい気分になっていた。
会社では、いつもの日常が待っていた。
電話をとり、取引先とやりとりをし、同僚たちとたわいもない話をする。
売上が一覧表示されているパソコンの画面を見ながら、今自分がしていることは何も変わっていないのに、たった数日で自分の中は随分変化してしまったと、桃子は考えた。
週末仕事を終えて家に帰ってから、今朝まで。
ほとんどずっと柚琉と一緒にいた。
(あんなに抱かれるなんて……)
思い出すと落ち着かなくなってくる。
指先や首筋に、柚琉の感触がハッキリ感じられる程に残っていた。
「はあ……」
思わず溜息をついてしまう。
(私、もう『会いたい』と思ってる……)
数時間前に別れたばかりだというのに。
もう柚琉に会いたくて仕方がなかった。
「桃子、聞いてる?」
「えっ」
込み合うため時間を少しずらして、智沙と二人で社食でランチをとっていた。
「……ごめん、ぼーっとしてた……ごめん、何だっけ?」
「ああ、そ……。たいしたことじゃないからいいけど〜〜」
食事を食べ終えていて、智沙は既に箸を置いていた。
桃子は慌てて残りのうどんを食べた。
「カフェテリアで、お茶していこうよ」
智沙はトレーを両手で持ち、腰を上げた。
社員食堂は食事のスペースとカフェテリアが分かれていて、後者の方は来客との軽い打ち合わせもできるようになっていた。
「うん、すごくコーヒーが飲みたい〜〜」
桃子も食器を重ね、トレーを持った。
洗い場まで食器を下げ、智沙と連れ立って歩く。
「……ちょっと、…桃子」
小さな声で智沙が言った。
「…屈むと、ココが見えるよ」
智沙は恥ずかしそうにしながら、自分自身の鎖骨の下あたりを指差した。
「えっ…?」
下を向いて、桃子は自分の胸元を見た。
柚琉の唇がつけた濃いピンク色が、クッキリと胸についていた。
「桃ちゃん!」
自宅の最寄駅につくと、柚琉が改札口まで迎えに来てくれていた。
彼は今日も桃子の家に泊まるつもりだった。
「柚琉…今日遅刻しなかった?」
「大丈夫。結構ヤバかったけど」
桃子を見て優しく笑うと、柚琉はすぐに彼女の手を取った。
いつも自然にそうしてくれる彼の仕草が、桃子はとても嬉しかった。
駅の近くで遅い夕飯を食べる。
「オレ……合鍵なんて貰ったの初めてだったから、何かすげー舞い上がっちゃって」
ご飯を早いペースで口に運びながら、柚琉は照れくさそうに笑った。
「私も、合鍵渡したのなんて、初めてだよ」
「うそ、マジで?」
「うん。ホント」
桃子はコップに手を伸ばし、水を一口飲んだ。
「かかかっ、…前の彼氏は?」
思い切り噛んだ、と柚琉は思いつつ気にせずに言った。
「渡してないよ」
他人が当たり前のように家に入ってくることに、桃子は抵抗を感じていたのだった。
(だけど、柚琉は平気……不思議)
柚琉ならいいと思った。
彼が自分の側にいてくれることは、とても自然に思えた。
「ヤッター!」
明るい笑顔で、柚琉は手を伸ばした。
(勝ったぜ……!前彼に!)
「柚琉は……」
桃子は柚琉から視線をそらし、テーブルを見つめた。
「??」
「特別だから」
「桃ちゃん……」
恥ずかしそうにしている桃子が、すごく可愛いと思った。
そして彼女の一言で、一気に柚琉の心臓がドキドキし始める。
(何だよ、……オレ)
手を伸ばして抱きしめたくてたまらなかった。
自分の視野の中、見えているのは桃子だけだった。
(好きだ……)
桃子の言葉や仕草が、自分の心を捉える。
もっと側にいたいと、思う。
「…早く帰ろうぜ」
やっと柚琉が桃子に返したのは、その一言だった。
翌日、就業時間も過ぎ、桃子は売上の一覧を見て月報を作成していた。
今朝柚琉は『今日は家に帰るから』と言っていた。
(こんなにうちに泊まってばっかりで、大丈夫なのかなあ…)
女の子なら考えられないことだ。
「……?」
デスクの上の携帯が光る。
柚琉からのメールで、今夜も会えないかという内容だった。
「大丈夫なの?今日は帰るんじゃなかった?」
桃子の部屋で、コンビニで買った弁当を開いた。
柚琉はゼロカロリーのコーラを、ゴクゴクと喉を鳴らしながら一気飲みする。
「帰るよ。終電間に合えばいいし」
既に10時になりそうだった。
「ふーん……」
少しの時間でも、その間を埋めるように会いに来てくれる彼。
(こういうのって、嬉しいなあ…)
会えないと思っていたのに、桃子は何だか特をした気分だった。
「あーあ、だから時間ないんだけどー」
柚琉は桃子を抱き寄せた。
唇が合わさり、桃子はすぐに裸にされる。
重なってくる柚琉も、裸だ。
柚琉の温かさが、とても心地が良かった。
男性に抱かれるのは初めてではないのに、彼は本当に特別だった。
「柚琉……好き…」
「オレも、スゲー好き」
彼の手が桃子の胸に触れる。
柚琉は体を起こし、桃子の首筋にキスした。
彼の両手は、桃子の乳房を包む。
「あー……またしたくなってくる……」
「帰るんでしょ…?」
自分にかかる彼の体重さえも、桃子にとっては気持ちがいい。
「うん…あー、めんどくせー…」
(泊まっちゃえばいいのに)
と、桃子は口に出したかったが堪(こら)えた。
「桃ちゃん……」
柚琉は桃子の頭を寄せると、ギュっと抱いた。
「もー、一緒に暮らしたいぜー…」
「……うん」
桃子は小さな声で頷いた。
こうして触れている柚琉が、自分のこの場所にずっといてくれればと思った。
彼となら、暮らしていける気がした。
一緒にいたくて仕方がなくて、一緒にいることが何よりも落ち着けるから、自然にそう思えた。
(こうやって……)
暫く前に、雅人に対して自問自答していたことを思い出す。
(自然に、結婚を考えるのかもしれない…)
「行かないと」
柚琉はベッドから飛び起きる。
背骨がゴツゴツした彼の若い背中を見て、桃子は彼が改めて年下なんだと感じた。
側においてあるパーカーを羽織り、桃子もベッドから出た。
「じゃあ、気をつけてね…もう夜遅いし」
「大丈夫だって」
柚琉はつま先で地面を蹴りながらスニーカーを履いた。
「柚琉、……また」
「うん」
「いつ会える?」
たったその一言を言うのに、桃子はドキドキしていた。
自分から相手を求めるリアクションを起こすことに対して、なぜか自分の中に壁があった。
それでも、その壁の向こうへと続くドアを自分から開けたいと思った。
自分の方からも、柚琉に手を伸ばしたかった。
「明日、また来るよ」
柚琉は明るく笑って、桃子にキスした。
(明日……)
そうあって欲しいと思うことが、柚琉と一緒だと現実になっていく。
「泊まらせてもらってもいい?」
桃子の両肩を掴み、顔を目の前に近づけて柚琉は恥ずかしそうに聞いた。
「もちろん」
今度は桃子の方から柚琉にキスした。
受け留める柚琉の腕が桃子の背中へと周り、深いキスに変わっていく。
「はあ……何かもう、…これから帰って意味があんのかって気がするけど…行くわ」
唇を離した柚琉が、ドアに手をかける。
「じゃあまた明日来る」
「うん、明日ね」
柚琉が出るために開いたドアの隙間から、冬の夜の空気が部屋へと流れ込んでくる。
この部屋は、なんて暖かいのだろうと桃子は思う。
(明日…)
彼と会える日が続いていくのが嬉しくてたまらない。
こんな風に毎日が過ぎていくのなら、自分は一生幸せでいられるかもしれないと思った。