(本当に何もなかったのかもしれない……)
飲酒すると具合が悪くなる彼を、桃子は直接知っていた。
(何もなかったのかもしれないけれど…)
携帯の写真の映像がまた頭に、よぎった。
自分と出会った時の柚琉を思い出す。
確か初対面で名前を呼ばれて、そして手を引かれて…。
その後、イベント会場で会ったときも彼は自然に桃子と手を繋いでいた。
まだ出会ったばかりで、付き合っていないというのに。
「軽い人、なのかもしれない……」
確かに軽い男だったのだろう、と桃子は思う。
桃子と付き合ってからの彼は一途な感じで、桃子自身も彼を疑うような気持ちは全くなかった。
(何もなくても……)
女の子を裸で抱き寄せるようなああいう状態になっている、という事だけで重大なことだと思った。
柚琉が『何もなかったから』と言うたびに、セックスしなければ『何もない』という括り(※くくり)で済むのかという疑念が桃子の中で起こる。
例えセックスをしていないにしても、その状況だけで桃子の心は打ちのめされていた。
「はあ……」
心は重いままだった。
部屋から追い出すように返した彼に対して、今携帯を手にしてフォローしようという気持ちは起きなかった。
すぐに金曜日になり、柚琉から桃子へメールが入ってくる。
『明日、土曜日だし今日桃ちゃんのところへ行ってもいいかな』
会社でメールを見た桃子は、少し考えてからすぐに彼に返事を返した。
『いいよ。今日は早く帰れると思う』
柚琉のことは好きだった。
好きだからこそ、尚更に桃子の気持ちは暗くなってくる。
(何事もなかったかのように、平然と振舞えるんだろうか…)
待ち焦がれていた週末を、まさかこんな気持ちで迎えるとは思わなかった。
新しいカタログと伝票を照らし合わせ、とりあえず今は仕事に集中することにした。
黙々と業務に取り組んだせいで、予想していたよりも早めに仕事が片付いてしまう。
「お先に失礼します」
自分の席を立つ桃子の足取りは重かった。
「あ、早かったね」
桃子が部屋に戻ると、先にいた柚琉がすぐに出迎えてくれる。
「うん……。あ、ごめん。会社出る時メールするの忘れちゃった」
考え込みすぎて、会社を出てからここまで自分がどうやって帰ってきたのか思い出せなかった。
「ううん、……桃ちゃん、お疲れ様」
桃子を見て微笑む柚琉は、いつもよりもどこか遠慮がちだ。
そんな彼の態度を受け、桃子も益々どうしていいか分からなくなってくる。
「えーっと…。すごいお腹すいちゃった。…今日はこのままどこかに食べに行こう」
玄関口で靴も脱がないままで、桃子は柚琉が準備をするのを待った。
「………」
「……食欲ない?」
食事に半分も手をつけていない桃子を見て、柚琉は苦笑した。
「えっ……。ああ……なんか…」
桃子は困った。
「柚琉、…食べられる?」
「うん。食べるよ」
彼の返事を受け、桃子は柚琉の方へ自分の皿を押し出した。
先ほどお腹が空いたと言っていた自分が恥ずかしくなる。
部屋で二人きりになるよりも、こうして外でいた方がいくらか気持ちが楽なのではないかと思い、柚琉を連れ出したのだ。
「……まだ、怒ってるよね…」
柚琉はしおらしく言った。
「怒ってるわけじゃないけど……」
彼に対して全く怒りがないわけではなかったが、怒っているというのとは違っている感情だと、桃子は思っていた。
「ごめん……」
桃子の残した食事にゆっくりと手をつけながら、柚琉は小さな声で言った。
このことがあって以来、もう何度もこの言葉を桃子は聞いていた。
部屋に戻っても、いつものような雰囲気にはならなかった。
普段なら、彼がいるだけで部屋の中が明るくなるような気がしたのに、今日は一人でいる時よりもずっと空気が重い。
可哀想なほど反省した様子で何度も桃子に謝ってくる柚琉を、優しく抱きしめてあげられればそれだけで元に戻れるとも思った。
それが分かっていても、桃子はどうしても手が伸ばせなかった。
それでも重たい夜の時間は、刻々と過ぎていく。
会話も途切れがちなまま、隣で並んでテレビを見ていた。
「桃ちゃん……」
「うん?」
「オレ……」
いつになく真面目な顔で、柚琉は桃子を見つめた。
桃子はその目に、ただ引き込まれるように視線を返した。
糸が繋がるように、桃子の中に柚琉のことが好きだという気持ちが溢れてくる。
「桃ちゃん…」
彼の唇が近付いてくる。
あと数ミリ、というところで桃子はハっとして体を引いた。
「………」
「………柚琉……」
(キスして、触れたいのに……)
桃子の目に涙が浮かぶ。
「ごめんなさい……」
「……桃ちゃん」
柚琉はこの状況を、受け留めきれないでいた。
自分がどういう行動をとるべきなのか、分からないままだった。
「悲しくて、…仕方がないの……」
下を向いた桃子の目から、涙が零れた。
「分からないけど、どうしてこんなに悲しいのか、分からないけれど……」
「………桃ちゃん…」
桃子の様子を見て、事の深刻さを改めて柚琉は痛感する。
彼は女の子をこんなに真剣に好きになった事が初めてで、そんな風に強く想う彼女を泣かせているこの状況に全く対応できていない。
できるだけゆっくりと手を伸ばし、桃子の肩に手を回した。
泣いている桃子をそっと抱きしめることしか、今の柚琉にはできなかった。
彼女の悲しい気持ちが伝わってきて、柚琉も切なくなってくる。
(桃ちゃん、…ごめん……。あいつ、何てことするんだよ)
梨香に対する怒りがこみ上げてきて、一瞬桃子に回している腕に力が入ってしまう。
(だけど、今更言っても仕方がないよな……)
梨香が桃子にした事は、もう取り消しがきかない。
それに桃子は、柚琉を疑うようなことはもう言っていなかった。
疑われていない、だからこそ余計に柚琉はどうしていいのか分からなくなる。
その晩は、ただ二人で並んでベットに入った。
お互いにすぐ隣に愛しい人がいるのに、この部屋の空気は息苦しいほど気まずかった。
「なあ、桃ちゃん……」
「…………」
ベッドの横の小さなスタンドが、暗い部屋を薄いオレンジ色に照らす。
「手、…繋いでもいい?」
「うん……」
柚琉は右手をそっと伸ばして、すぐ隣にある桃子の手を握った。
触れた手の柔らかい感触に、お互いの切なさが高まる。
「桃ちゃん………。好きだよ」
抱かれている時に何度も囁かれるその言葉が、
今 この場で重みを増して桃子の心を押しつぶすように刺さってくる。
(私だって、……好きよ)
「……うん…」
また涙が出そうになるのを堪えて、桃子は頷いた。
好きだからこそ、悲しくて仕方がなかった。
好きだからこそ、許せない事があるとするならば、もしかしたらあの事がその1つなのかもしれないと桃子は思う。
だがそれを自分自身、認めたくなかった。
(柚琉のことが好きだから…)
「ホントに、……大好きなんだよ」
そう言う彼の消え入りそうに細い声が、あまりにいつもの彼らしくなくて桃子は余計に切なくなってくる。
柚琉は桃子に触れている指先に、ギュっと力を入れた。
(離したくないんだ……マジで)
桃子が離れてしまうような不安で一杯になっていた。