好きという気持ちだけで全てうまくいけばいいのに

●● 17 ●●

   

週末はギクシャクしたまま、結局キスすることさえできずに柚琉は桃子の部屋を後にした。

(どうしたらいいんだよ……)
桃子にハッキリと拒否されたわけではないが、あからさまに自分を避けているというのは分かる。
(わかんねえよ……)
彼女に対して悪かったという気持ちと、自分が何が何だか分からないままにハメられたような気持ちと、柚琉の中でも複雑な思いだった。
桃子がどうしてこんなにもかたくなに自分を拒むのか、それもいまひとつ理解できないでいた。
「はあ……マジで、どうすればいいんだよ……」
経験のないこの事態に、柚琉は困り果てていた。

(好きなんだよ……。マジで……。桃ちゃん……)

いつも以上に切ない想いで、桃子の部屋から自宅へと帰る道を歩いた。
見上げた空は、まだ明るかった。
こんな時間に彼女と別れるのも、付き合ってから初めてのことだった。



柚琉が去った部屋で一人、桃子はずっと考えていた。
(このベッドで…これまで何度も柚琉に抱かれた…)
先週まで、片時も離れることなく二人でくっついていた事を思い出す。
つい先刻まで、柚琉はこの部屋にいた。
それなのに、二人でいても明らかに今までとは違っていた。
「柚琉………」
彼のことが好きだ、と桃子は思う。
大事でたまらなかった。
(大事だからこそ、……辛い……)
桃子はベッドの上に座り、首を振った。
(柚琉のことが、大好きなの……)
想えば想うほど涙が止まらなかった。
(だけどこんな気持ちで、……付き合っていけるの…?)
もしも明日柚琉に会ったとしても、今日の自分がすぐに変われるとは思えない。
「柚琉の馬鹿……」
桃子は一人、ただ泣き続けた。



月曜日、会社から戻っていつものように柚琉と電話をした。
ぎこちない空気感はそのままで、お互いに当り障りのない会話をして早々に電話を切った。
桃子が柚琉を想うとき、二人の間に壁が立ちはだかっているのを感じた。

(不安なの……)
あれ以来、一人で柚琉を思い出すたび桃子は泣けてしまう。

(不安でたまらないよ……)

柚琉の明るい笑顔が、自分だけのために向けられればいいのにと思う。
それでも現実的にそんな事は不可能で、柚琉の日常に接する様々な人が、彼のその笑顔を受け留めている。
初めて会った時桃子も魅了された彼の魅力に、惹かれる人がいても不思議ではないと思う。
「柚琉……」

桃子は怖かった。
彼にどんどん惹かれていく自分が。
このままで行けば、いつか戻れなくなる。
この先もし彼と別れる時が来たら、自分がどうなってしまうのかを考えると不安だった。
「そんな日が来たら……きっと、もう…」
怖くてたまらなくなる。
(柚琉が本当に自分の全てになってしまったら…)
あれから目を閉じるたびに、裸の柚琉が裸の少女を抱いていた映像が浮かんでしまう。
その姿を思い出すたびに交錯する様々な感情に、桃子は耐えられなかった。

今更ながらに、20代後半の自分が背負うものと、まだ18歳の柚琉が感じているものの大きさの違いを思う。
(今なら、まだ……引き返せるかもしれない……)

打算的に考えているわけではなかった。
雅人と付き合っていた頃の自分に戻ってしまったようだ、と桃子は思う。
恋愛に臆病だった当時の自分。
(本質的な性格は変えられないのかも……)
あの頃は『会いたい』という言葉さえ素直に口に出せなかった。
(あんな自分は、もうイヤなのに……)

立ち止まってしまう。
柚琉が、側にいるのに。




突然の桃子の言葉に、柚琉は驚いた。
あの出来事を告白された以来、平日に会うのは初めてだった。
彼女から今夜会いたいと言われ、バイトが終わった足で桃子の部屋に向かった。
既に桃子は仕事から帰って来ていて、柚琉を待っていた。

「しばらく……距離を置きたいの」

「距離……?」
付き合う前の距離感で、桃子と柚琉は向かい合って座っていた。

「『距離』って……?」
嫌な予感を体中に感じながら、今日柚琉はこの部屋まで歩いてきた。
それが現実になってしまいそうで怖い。
「『しばらく』って…」
柚琉は手が冷たくなってくる。
ドキドキしすぎて、気分が悪くなりそうだった。
これまでずっと安らぎの場所だったここが、今日はまるで違う色をしていた。

「……分からないけど……」
桃子は困って答えた。
同じ様に彼女も緊張していた。
ここ数日考えた、苦渋の決断だった。

「オ、……オレ、……嫌だよ」

思わず柚琉は本音を言ってしまう。
こんな時、自分は子どもっぽいと思う。
それが分かっていても、言わずにはいられなかった。
「…桃ちゃんと会えなくなるなんて、オレ、無理だよ!」
声を荒げてしまう。
「好きなんだよ……!……オレ……桃ちゃんが」

(柚琉……)
その言葉に涙が出そうなぐらい嬉しい自分がいるのに、桃子はそれを見ないようにした。
自分も彼のことが好きだと痛いぐらい分かりきっているのに、敢えて痛みに耐えようとした。
――― この先に付くであろう、もっと深い傷を恐れて。

「……無理なの…?」
桃子の声が震えた。
「無理だよ……」
柚琉の声もかすれる。

その後の沈黙に、お互いに息を呑んだ。



「じゃあ、別れて……」


柚琉は桃子のその一言が信じられなかった。
「え……?」
「………」
黙ったままの桃子の思いつめた様子に、柚琉は彼女の本気を見る。
「な、なんでだよ…?」
柚琉は声を荒げた。
緊張の糸が切れて、両手に力が入る。

「別れるって、なんで…?桃ちゃん、もうオレの事がイヤになったのか?」
(違うよ……柚琉…)
こちらを見る彼の真直ぐな目が、こうしている今でさえも桃子には眩しく感じる。
「オレが、あんな事したからか?」
「…………」
桃子は答えられない。
「オレ、……あの夜の事、全然覚えてないんだよ…。悪いのはオレなんだけど…。でもオレは誓って何もしていないし…」
柚琉はパニックで、思いつく限りの言い訳を口にした。
それが今の彼女の気持ちを動かすことはないであろうことが分かっていても、言わずにはいられなかった。

「桃ちゃん……」
柚琉は息が上がる。
桃子は静かに答えた。
「……変に距離を置いて……、会えないのにお互いを縛り合うよりも………」
こみ上げて来る気持ちを、桃子は懸命に抑えた。

「別々の道を行った方が……いいと思う」

「…………」
柚琉は頭が真っ白になる。
今、彼女の心を引きとめる術が全く分からない。

「桃子……!」

手を伸ばして、柚琉は桃子を抱きしめた。
桃子は一瞬体を固くするが、そのまま彼の勢いに身を任せた。
力の入った柚琉の腕が、勢い余って桃子を押し倒してしまう。
倒れこんだその状態になっても、桃子は抵抗せずに柚琉にされるがままでいた。
「………」
柚琉は桃子にキスした。
噛み付くようなキスだった。
彼の熱い気持ちが唇に込められて、桃子は胸が痛い。
涙が一筋、桃子の頬に伝う。

「………はあ、はあ……」

柚琉は桃子の両肩を掴んでいた。
体を起こすと、付き合う前に押し倒した時の状況がフラッシュバックした。
“私のことが好きじゃないんなら、抱いてもいいよ”と言った時の彼女と、今の桃子の表情が柚琉の頭の中で重なってくる。
「……………」
桃子から離れ、柚琉は座り直した。
膝を立てた向こう側で、両手で顔をこすると頭を抱えた。
柚琉はポツリと呟いた。


「もう………オレの事が好きじゃない?」


「…………」
桃子は思わず首を横に振ってしまいそうだった。
別れたくない気持ちが一気に込み上げて、『ごめん』と言って柚琉を抱きしめたくてたまらなくなる。
『好きだ』と、体中の細胞が彼へと向かっていきそうな気さえした。
そして同時にこんなにも心の芯から求めてしまう事が、逆に桃子の恐れを増大させた。

柚琉の手が桃子に伸びてくる。

その動作は先程とは違いゆっくりとしていて、桃子の目には空気の色を優しく変えて彼の腕が自分へ向かってくるうように見える。
(だめ……)

心の底から身を任せたくなる。
彼の腕へと入っていけたら、どんなにか幸せだろうと思う。

柚琉の細く伸びた骨ばった手。
そこから続く素肌の胸の、あの何とも言えない優しい感触を桃子は思い出す。
そして……その胸に他の女の子と肌を合わせていた。
その残像は、どうしても桃子の瞳から消えなかった。

「……触らないで……」

桃子は、ほとんど懇願する口調だった。
彼女に伸ばしかけていた柚琉の手が止まり、表情とともに固まる。

(桃ちゃん……)

自分がそこまで拒まれている事を思い知り、柚琉はショックだった。
目の前にいる愛しすぎる彼女が、これまでとは別人に思えてくる。
あんなにも自分を求めてくれた桃子は、もう戻って来ないのか。
何とか抑えようとしていた感情が、柚琉の中で一気に高ぶってくる。
この場を繕う理性が吹き飛んでしまいそうだった。

「…………!」


柚琉は立ち上がって桃子に背を向けると、振り返らずに玄関まで走った。
桃子が視線で追いかけた時には、既にドアの閉まる音が響いていた。


一人の部屋は静けさに包まれた。
「柚琉……」
もしかしたら本当にもう会えないのかもしれないと思う。
だがそれは全く実感を伴わず、瞬きをすればまた彼が目の前で笑ってくれるような錯覚さえした。
しかし目を開けても、桃子は部屋に一人だ。
『もう、オレのことが好きじゃない?』と言った時の、柚琉の顔が浮かんだ。
あんなに悲しそうな柚琉を、見たことがなかった。


「……好き…、柚琉、大好き…大好き……大好き…」

首筋に胸元に、涙が伝っていく。
心に抑えていた言葉を、桃子は何度も繰り返した。




その日の店内はいつになく込み合い、佐藤が率いる店のメンバーも1日中慌しかった。
アルバイトたちが帰り、営業時間が終わってもまだ仕事が残っていた佐藤は、在庫と伝票を合わせ改めて売上を確認するなど諸雑用に追われていた。

ふと、Gパンの後ろポケットに入れていた佐藤の携帯電話が鳴る。
手にとると、桃子からの電話だった。
(珍しいな……)
何か急用かと思い、佐藤は慌てて携帯を開いた。
「もしもし、佐藤です」
『あ…お疲れ様です。今日、売上すごく良かったですね』
「なぜか今日は人が多かったですねー。近くで何かイベントでもあったんですかねえ…」
売上状況はオンラインで繋がっており、本社でもリアルタイムでチェックできるようになっていた。
『まだ、お店ですか?』
営業時間が終わって、もうすぐ2時間になろうとしていた。
「そうですけど……」
業務の用事なら、わざわざ自分の携帯電話にかけてこなくても店の固定電話にすればいいはずだ。
佐藤はやはり何か急ぎのトラブルかと思い、少し身構えた。
携帯の向こうの桃子の声が小さくなる。
『すみません……。佐藤さんに個人的に相談したいことがありまして…』


佐藤はその時初めて桃子と柚琉が交際していたのを知った。
(柚琉……いつの間に)
本当は詳しく聞きたいところだったが、『別れた』と暗い声で言う桃子に、柚琉のことを深く追求することはできなかった。
「それで……」
『……彼に渡してもらいたいものがあるので……。彼のバイトが入っていない日に、そちらにお伺いしてよろしいですか…?』
「それは構いませんけれど…」
今日の柚琉に変わった様子はなかったが、どことなく空元気だったようにも見えた。

これまでの柚琉だったら、桃子と付き合ったことをすぐに自分に報告していただろう。
(あいつなりに、いつもと違う交際だったんだろうな……)
何代も下の後輩とはいえ、縁があってここに働きに来てもらっている以上、佐藤は柚琉のことも少し心配になってくる。
「僕思うんですけど、こういう事って第三者を介さない方がいいような気がするんですよね…」
『………えっ』
「僕が羽生さんのことづけを聞くのは別に構わないんですけれど…、できればあいつに直接会って、羽生さんから渡した方がいいんじゃないですか」
『………』

「二人の問題だし」

『……そう……そうですよね…』
少しの沈黙の後、桃子は佐藤に丁寧に礼を言うと電話を切った。
(羽生さんに対して、少し冷たかったかな…)
結果的に桃子の願いを突っぱねてしまったが、それは間違っていないと佐藤は思った。
恋愛のことは幾ら説明されても、結局は当人同士でないと分からないものだ。
(柚琉……大丈夫か?)
二人の間に何があったのかは分からなかったが、改めて柚琉の事が気がかりだった。


佐藤に断られて、桃子は困った。
既に直帰をして、昨日には柚琉がいた自分の部屋に戻っていた。
(やっぱり……直接会わなきゃダメだよね…)
柚琉の実家に、彼がこの部屋に残していった沢山の荷物を送るのは気が引けた。
いかにも関係があったと、彼の家の人にばれてしまうのが嫌だった。
(柚琉……)
ハンガーにかかっている彼のグレーのパーカーが、ただの服だというのに桃子の心を押しつぶしそうな程の存在感だった。
彼が残した様々な日用品が、つい先日までの二人の関係を物語る。

(今、彼に会ったら……どんな顔をしたらいいの……)
佐藤の言うとおり、柚琉と自分の間にあったことに第三者を巻き込むことは間違っていると思った。
それを佐藤に懇願してしまった自分が恥ずかしい。
捨てるわけにはいかない、彼の持ち物をどうしたらいいのかとしばし桃子は考えた。
(もし、柚琉が捨ててくれと言っても……)
自分は捨てることはできないだろうと思う。
彼の持ち物でさえ、愛しくてたまらなかった。

「はあ………」

泣きたくなる気持ちを堪えながら、桃子は柚琉にメールを送った。
入力しては消し を繰り返し、送信するまでにかなり長い時間を要した。

 

ラブで抱きしめよう
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