土曜日のホテルのロビーは、待ち合わせる人々でザワザワしていた。
ソファータイプのチェアが不規則に並ぶフロアには、これから結婚式へ行くであろう人の姿もあった。
自分の姿を場違いに感じながら、柚琉は桃子を探した。
窓際の植栽の陰、二人がけにしては広いソファーに、桃子は座っていた。
午前の陽射しがあちこちから入るその場所にいる彼女はやはりきれいで、柚琉は胸が締め付けられる。
「…………」
どう声をかけたらいいのか分からなくて、柚琉は黙って彼女へと向かって歩みを進めた。
近付くほどに桃子のことが直視できなくなる。
「……わざわざごめん」
まるで他人のように言う桃子の言葉が、柚琉は悲しかった。
「…………」
「荷物……いっぱいあったから…」
桃子の足元を見ると、柚琉が置いていった大きめのスポーツバッグがあった。
頻繁に泊まっていたので、衣類やら生活用品やらが沢山あったはずだ。
柚琉は彼女の横に座った。
広いソファーの間にある二人の隙間の大きさが、悲しみを増幅させた。
(はあ……)
別れてしまうなんて、信じられなかった。
このまま、晴れた冬の街へと二人で繰り出したい気持ちになってくる。
何もなかったように、二人で過ごせたらどんなにいいだろうと柚琉は思う。
それでも隣にいる桃子の気配は固く、付き合っていた頃とは違う空気を醸し出していた。
(桃ちゃん…)
しばらくお互いに何も言わなかった。
その沈黙に気持ちが押し潰れそうになっても、柚琉は今日が最後だとはどうしても思いたくなかった。
伸ばしたくてたまらない腕を顔の前で合わせ、そのまま額に手をやって柚琉は言った。
「………桃ちゃん」
「………」
「オレ、……全然別れたくないんだけど」
「………」
桃子は思わず息を呑む。
「別れるなんて……信じられねえよ」
「………」
「桃ちゃん………」
柚琉が口にする『桃ちゃん』という響き。
何度言われてもくすぐったいような嬉しさを、いつも感じていた。
その響きが今でも変わらないという事が、逆に桃子の心に痛いほど切なく刺さってくる。
彼のことをこんなにも好きなまま別れてしまうなんて、自分でも理解できなかった。
それなのに一緒にいられないだろうという予感に耐えられず、結局はこんな結末を選んでしまった。
自分を弱虫だと思う。
それでも好きになればなるほど、一人には戻れない所まで連れて行かれてしまう気がした。
いつか来るであろう別れを怖れていた。
そしてその時が来たら、きっと 完全に自分を見失ってしまう。
(柚琉……)
意を決して、桃子は言った。
「…今、別れた方がいい……」
「えっ……」
「………」
「今、って……どういう意味?」
柚琉は鋭く桃子の言葉を捕らえて、そこを突いてきた。
桃子の緊張感が高まる。
言わない方がいいのか、口に出した方がいいのか分からない。
しかしうやむやにしたまま、彼が納得するとは思えなかった。
桃子は膝に置いた両手をギュっと握り締めた。
「……だって、……きっと……」
桃子の声が震える。
「………?」
柚琉は桃子を見た。
こんなに近くにいるのに、今 そばにいる彼女は遠かった。
「柚琉と私の未来は重ならない」
桃子の固い声は凶器のように、柚琉の胸に刺さった。
「…………」
柚琉は、桃子との出会いに運命を感じていた。
ずっと一緒に歩いていきたいと本気で真剣に考え始めていた。
(それなのに……)
ガックリと柚琉の体から力が抜けていく。
(そんな……)
「桃ちゃん………」
明らかにショックを受けている彼の様子が桃子にも分かった。
柚琉のそのさまに自分を見るようで、桃子は余計に辛くなる。
(ごめんね、……柚琉)
泣きたくなってくる。
柚琉のことが好きでたまらなくて、こうしている今でもすぐに駆け寄って本心を告白したいというのに。
桃子は下唇を噛んだ。
「鍵を……」
「………」
「…鍵を、返して…」
その言葉に弾かれたように、柚琉は我に返る。
(鍵……)
ごそごそと、Gパンのポケットに手を入れて財布を捜す。
財布と一緒にベルト通しに繋がっているチェーンの先の1つに、桃子の部屋の鍵があった。
固く冷たい鍵の感触を、柚琉は指先で確かめる。
ただの鍵。
だが、この鍵を自分が持っているという意味はどれだけ大きいことか。
唯一これがあるからこそ、別れたと言われても桃子と繋がっているような気がしていた。
これを渡してしまえば、本当に彼女との縁が切れてしまう。
「………」
チェーンから合鍵を外し、ゆっくりと桃子の方へ差し出した。
柚琉の指先はかすかに震えていた。
それを受け取る桃子の指もまた、震えていた。
「………行くね……。それじゃあ」
鍵を受け取るとすぐに立ち上がろうとして、桃子は腰を浮かせた。
「桃ちゃん!」
固く、強い口調で柚琉は桃子の名を呼んだ。
桃子は驚いて柚琉を見る。
今日初めて、お互いに顔を見合わせた。
真直ぐに自分を見据える柚琉に、桃子の全てが止まる。
彼の想いの深さが、伝わってくる。
「桃ちゃんは、……オレが桃ちゃんを想う程、オレの事が好きじゃなかったの…?」
「…………」
(柚琉……)
体から発する気配が声になるならば、彼のことが好きだと全身が叫んでいただろう。
桃子は答えられなかった。
返事を待つ彼の目から逃れるように、桃子は目をそらした。
下を向くと一呼吸ついて、黙ったまま立ち上がった。
「………じゃあね…」
柚琉に背を向けて、桃子はまっすぐに彼から離れて行った。
柚琉は呆然としたまま、ただ桃子の後姿を見送った。
腰がソファーに縛られたように、動けない。
「………桃ちゃん…」
頬に一筋、涙が落ちた。
(オレ、……泣いてんのか…?)
泣いている自分を信じられない思いで、柚琉は溢れた涙を手で拭った。
「マジかよ……」
ガクンと肩を落とし、下を向いた。
涙が余計に溢れ出てくる。
(桃ちゃん……マジで……?)
足元に残された自分の荷物が目に入る。
(終わりなんて、ウソだろ……桃ちゃん…)
視界が滲んでくる。
柚琉はしばらく動けなかった。
下を向いたまま、金髪に近い茶色に染めた頭を両手で抱え、人目も気にせずにただ、泣きつづけた。
「お前、ちゃんと食ってるか?」
「えーと…?今日の昼、奮発して社食の焼肉ランチ500円食いましたけど」
柚琉は店の外の通路際に立ち、腕を伸ばしながら佐藤の方へ振り返った。
「そういう意味じゃなくて、……なんか痩せてないか?」
佐藤は心配そうな顔をしていた。
柚琉は自分の腹回りを触りながら言う。
「……痩せた…かなあ」
右手で左の肘を掴み、骨のあたりを撫でてみた。
「……大丈夫か?お前」
「…なんとかやってますよー……」
そう言いながらふと思い出して、柚琉は声のトーンを上げた。
「そうだ、キヨ先輩、…オレ、クリスマス、シフトに入れてくださいよ」
「そりゃー入ってもらえるのはありがたいけど」
佐藤はカウンターの裏に張ってあるシフトの小さなメモを見た。
「一人のクリスマスっての、…ちょっと今のオレにはキツ過ぎますから」
自嘲気味に柚琉は笑顔になると、また店の外に視線を戻した。
(痩せた…か)
地下街の通路に貼られた鏡に映る自分を見て、確かにそうかもしれないと柚琉は思う。
(結局、誕生日……一緒に過ごせなかったな…)
両手を黒いダウンのポケットに入れて、中でギュっと握った。
(ホントに……何もいらなかったんだけどな…)
ただ、一緒にいられれば良かった。
共に過ごそうというクリスマスの話も、今となってはひたすらに虚しいだけだ。
(何してるんだろうな……桃ちゃん)
同じ事を1日に何度も考えていた。
(今……どうしてるんだろうか…)
突然の事で、柚琉は桃子と別れた事に実感があまりなかった。
それでも、会えないというのは現実で、時間が経つにつれてそれは柚琉の中で深刻さを増した。
(会いたい……)
耳にあたる空気がキンとして、透明な冷気が染みるような夜の中。
柚琉は無意識に桃子の駅で降りてしまう。
そんな事を、もう何度しているだろうか。
「はあ……」
吐く息が白く広がり、夜へと消えていく。
桃子の部屋のある方角へと、自然に視線が向いてしまう。
次の電車に乗って帰ろうと思い、ベンチに座る。
電車が駅に到着しても、柚琉はそれに乗ることができない。
(桃ちゃん……)
うつろな視線で、ぼんやりと向こう側のホームを見つめた。
「会いたいよ……」
子どものように呟いて、柚琉は目を閉じる。
瞳に溜まる涙を、自分の気持ちと共に堪え飲み込んだ。