年が明けてから、そろそろ1ヶ月が経とうとしていた。
店は一部に最終セール品だけを残し、早くも春物が陳列されている。
(はあ……)
柚琉は色合いの変わった店内を見渡し、再度溜息をついた。
以前のように、バイト中に桃子と出会うことはなくなった。
担当を外れたのかもしれないと思ったが、それを佐藤に確認する気にはなれなかった。
何度か直接桃子に連絡を取ろうともしたが、実際に行動に移すことはできなかった。
――― 時間は、桃子と別れたあの時から止まったままだと思った。
(こんなにも、好きになるなんて……)
自分自身の内にある桃子の大きさに、柚琉はただ戸惑っていた。
(こんなにも、人を好きになるなんて……)
桃子と出会い、親しくなるまであっという間だった。
付き合えた時、本当に嬉しかった。
こんなにいつも一緒にいたいと思ったのは、初めてだった。
(会いてえよ……)
どうしてこんな風になってしまったのか、柚琉は時折考える。
きっかけは自分の行動だったが、今となってはそれはほんのつまづきに過ぎないような気がしていた。
この状態は、なるべくしてなったのではないかと思う時もある。
(オレの、せいか……)
自分が桃子のことを好きなように、桃子も自分のことを愛していてくれていたのかも知れない。
逆の立場で、こんな事をされたら傷つくなんてこと、今なら容易に想像ができた。
『自分は悪くない』と、『自分のせいではない』と、桃子に別れを切り出されたとき、柚琉は心のどこかでそんな風に考えていた。
しかし今なら、桃子の辛さが分かる。
(もう一度………)
柚琉は首を振った。
(忘れなきゃ、いけないのか……)
ぼんやりとする事が前よりずっと多くなった気がする。
柚琉は、店の外の通路の奥に目をやった。
そこから桃子が現れた日のことを思い出した。
「お前、大丈夫か?」
佐藤が横に並び、声をかけてきた。
「ああ……。別に大丈夫ですけど…」
なんだかバツが悪くて、佐藤の視線を避けるように柚琉は店の奥へと入って行く。
「……ふうん」
(ほんとに大丈夫かよ)
佐藤は少し心配していた。
黙って立っているだけでも明るいオーラを感じさせるような柚琉だったのに、ここのところはそんな気配さえもない。
(でも…オレがどうこうする問題じゃないしな)
結局のところ、ただ見守るしかないと佐藤は思った。
「あっ!」
桃子が外回りから帰り、自分のフロアへとエレベーターを降りた時だった。
「おお」
目の前に、スーツ姿の雅人がいた。
意外な人物との突然の再会に桃子は驚いて、目をパチパチさせて彼を見た。
「………どうしたの?」
「出張。前は大阪出張が多かっただろ。今はそれの逆」
「そうなんだ…」
別れたとはいえ、会社内では雅人は先輩であり、ぎくしゃくした態度をとるわけにはいかない。
桃子は少し身構えて、恐る恐る彼へと顔を戻した。
雅人は桃子へと、懐かしそうに優しい視線を向ける。
彼の態度は大人だった。
「今日、良かったら時間ない?」
「えっ?」
「久しぶりに会ったし、夕飯でもどう?…って言っても新幹線で帰る時間までだけど」
そう言いながら雅人は袖をめくり、腕時計に目をやった。
「ああ……」
何事もなかったように振舞う彼のペースに、桃子は乗せられる。
「……うん。大丈夫だけど」
仕事が終わると早々に引け、品川駅の とあるレストランに入った。
こんな風にまた二人で会うなんて、桃子はどんな顔をしていいのか分からない。
雅人は会社で見せる普段通りの雰囲気で、かつて付き合っていたというのに二人の間に流れる空気は職場の同僚といった感じだ。
「誘っておいてなんだけど、…時間、あんまりないんだ。8時半には乗るから」
利便性のよい立地にあるこの店は早い時間だというのに混雑していて、案内されたのはカウンター席だった。
「うん。分かった」
微妙な距離を置いて、桃子も彼の隣に座った。
「ああ……」
大きく息を吐きながら、雅人はポケットからタバコとライターを取り出し、テーブルに置いた。
その手を首筋に持っていき、ネクタイを緩める。
「スーツは嫌いじゃないんだけど、ネクタイがなあ。オレ、締めすぎる癖があって」
「………ふふ」
雅人の様子を見て、桃子は少し笑ってしまう。
東京にいた頃の彼が社内ではラフな格好をしていたのを思い出す。
今日の彼はきれいに髭も剃っていて、年相応のサラリーマンに見える。
「大阪は、どう?慣れた?」
桃子は雅人に言った。
「……まあ、な。でもある意味、こっちの人間よりも向こうの方が人情味があるような気がする」
雅人はタバコを取り出しながら、含んだように笑う。
しばらく当り障りのない世間話で時間は進んだ。
こうして普通に話をしているのが、何だか桃子は不思議だった。
別れて、こんな風に会うことなんて二度とないと思っていた。
雅人と話していると、心の隅に追いやっていた昔のことを自然と思い出してしまう。
グズグズした気持ちばかりを抱え込んでいた自分。
雅人に対してそうだったように、結局は柚琉に対してもあまり変われなかったように思う。
「その後、……そっちはどう?」
「私…?」
近況を振られるのは当然なのだが、改めて言われると桃子は返答に困ってしまう。
『その後』という言葉の意味も大きい気がした。
「うーん………まあ、…まあ…変わらないかなあ…」
そんな桃子の様子を見て、雅人はすぐに切り返す。
「何だか元気ない感じがしたけど」
「えっ…?そ、そう?」
慌てて目を見開き、桃子は改めて笑顔を作った。
そんな様子を雅人はじっと見詰める。
「……痩せたんじゃないか」
「痩せたかな…?……や、痩せたんならいいけど……太るのは嫌だし…」
桃子は右手でせわしなく自分の左手を撫でた。
あからさまに含みを持つ桃子の態度に、雅人はさらに問い掛けた。
「結局、………桃子は、『気になる子』と 付き合ったのか?」
桃子はドキドキしてくる。
(雅人……)
彼との別れを後押ししたのは、やはり柚琉の存在が大きかった。
雅人に嘘をつくわけにはいかないと思った。
桃子は腹をくくり、秘密を打ち明けるように小さな声で答えた。
「……付き合ったけど…………すぐに別れちゃった」
そう言う桃子を直接には見ずに、雅人はタバコの煙を深く吐いた。
「そうか」
雅人は一言だけ言うと、仕事の話へと話題を変えた。
しっかりとコートを着て、風の通る駅へと向かう。
「ごめんな、短い時間で。……でも話せて良かった」
JRの改札を抜け、新幹線の改札口で二人は立ち止まった。
「私も…。…良かった」
雅人に笑顔を向けた。
こうして話す機会があって、自然に会話ができた事が桃子は嬉しかった。
「オレ、まだ1人だし……よりを戻せないかなって気持ちもあったんだけど」
「えっ?」
突然の雅人の言葉に桃子は驚いた。
思わず彼をじっと見てしまう。
雅人は達観したような笑みを浮べていたが、目元には少し寂しそうな陰があった。
「桃子は、……まだそいつの事が好きなんだな」
「………」
「彼の事しか頭にないです……って、態度に出てる」
「………」
恥ずかしくなってくる。
そんな風に言われるほど、自分はどんな態度だったのだろうと桃子は思う。
しかしそれは図星であって、桃子自身も見ないようにしてきた自分の真実だ。
「…後悔するなよ」
「雅人……」
「オレは、……ちょっと、したから」
彼の目は優しかった。
こんな包容力を、付き合っている時にどうして感じることができなかったのか。
こんな風に言ってくれるほど、自分を好きでいてくれたことに当時の自分は気付かなかった。
桃子は胸がギュっと痛くなる。
自分は何も見えていなかったんじゃないかと思う。
今だって。
様々なことに対して。
「それじゃあ、また」
雅人は桃子の腕をポンと叩くと、マフラーを直してそのまま新幹線の検札を通り抜けて行ってしまった。
彼が去った後にも、桃子のコートにタバコの匂いが残った。
雅人のあらゆる行動に、『大人』を感じた。
(……あんな風に、言われるなんて)
考えもしなかった彼の優しい様子が、桃子の胸に刺さる。
それでも、既に雅人は過去の男なんだと桃子は実感した。
胸の痛みも既にどこか癒えていて、不思議と生々しさはなかった。
優しさに甘えて再び彼の腕へ雪崩込むようなことは、もう決してないだろうと思った。
(見透かされた……)
自分自身の柚琉への想い。
――― 『後悔するなよ』
(後悔………)
『後悔』という言葉を、ずっと考えないようにしていた。
柚琉との別れを選んだこと。
今、彼とともに日々を過ごしていないこと。
同じ時間を歩んでいないこと。
(柚琉……)
雅人に言われたことが、情けなくなってくる。
雅人に言わせたことが、情けなくなってくる。
(ダメだなあ……私……)
堪えてきたものが溢れそうで、電車の窓に映る自分の姿から目をそらし、唇を噛んだ。
「おはようーー」
エレベーターを待っている間、同僚から声をかけられた。
「おはようございます。伊藤さん、いつもこんなに早いんですか?」
「ボクはいつもこれぐらいだよ。羽生さんこそ早いね」
「………私はいつもギリギリですから」
思わず桃子は苦笑する。
月末の処理の準備のために、今日は早めに出勤した。
これから一日が始まろうとするほどよい緊張感が、まだ人もまばらなフロアに心地よく漂う。
桃子は担当する店舗の一覧を見て、締めまでの売上を確認する。
(S店……)
佐藤が店長を務める、柚琉のいる店舗。
柚琉と別れてから、私情を絡めてはいけないと思いながらも避けていた。
(さすがに、そろそろ行かないと…)
早い時間なら、柚琉は来ていないはずだ。
(それでも、もし彼に会ってしまったら…)
平常心でいられるとは思えなかった。
会いたくてたまらないのに、顔を合わせるのは怖かった。
10時を過ぎ、外から佐藤に電話を掛けて、柚琉が来ていないことを確認した。
そんな自分をダメだとは思ったが、やはり柚琉に会う勇気はなかった。
「仕事、仕事………」
百貨店内に入っている店舗。
エスカレーターで上がりながら、この場所に来ると桃子の緊張は嫌でも高まってしまう。
フロアに着き、一歩ずつ歩みを進めるたびに、動悸は激しくなり汗をかいてくる。
(いない、って……分かってるのに)
いて欲しいと思ってしまう。
会う勇気はないくせに、会いたいと思ってしまう。
もうずっと何日も、いつでもすぐに泣けるぐらい好きだというのに、その気持ちを押し殺していた。
別れなければいけないと思っていた。
忘れなければ、前に進めないと分かっていた。
それなのに気持ちは変わらず、それどころか募るばかりだった。
避けてきた柚琉への想いが、店へと一歩近付くたびに桃子の前で形を作ろうとした。
振り払おうとしても、その幻影は確かなものへと輪郭を濃くしその姿を大きくしていく。
汗が出てくる。
そこにいて欲しいという強い願いが、体から溢れてくる。
「はあ……」
深呼吸した。
ぎりぎりまで見えないような死角を移動しながら、桃子はまた一歩店へと近付く。
「おはようございますー」
いつものように明るい笑顔を作り、店内へと入る。
「………………」
カウンターに佐藤がいた。
そのすぐ横に、黒い髪の柚琉がいた。
「……………」
柚琉は驚いている。
固まってしまった数秒間が何分にも感じた。
「おはようございまーーす!」
佐藤の声で、桃子は我に返った。
柚琉もそうだった。
「あっ……、えっと……、すみません久しぶりで。……今日は……」
慌てて桃子はカバンから手帳を取り出す。
佐藤のいるカウンターへと近付く。
手が、震えていた。
柚琉は静かにその場を離れ、店内の方へと移動していく。
桃子の視界の中から、彼の姿が消えた。
佐藤は全くの普段の様子で、桃子の対応をした。
分かっていて、柚琉は来ていないとあえて言ったのだろうという事を桃子は察した。
雅人と同様、自分以外の周りにいる人間全てに自分のことを見透かされているような気がして、桃子は恥ずかしくて一刻も早くこの場を立ち去りたかった。
今、自分の後ろに柚琉がいる。
同じ場所に、彼がいる。
自分が何をしているのか分からないまま、手早く仕事を済ました。
恥ずかしくて、佐藤の顔もあまり見ることができなかった。
「じゃあ、また……あとはお電話で」
カバンに手帳等を直し、逃げるように佐藤の視線から外れる。
柚琉が目に入った。
それでも視点を合わせることができなかった。
ここに柚琉がいるのに。
彼を見ることができない。
「…………」
この場をどうしたらいいのか全く分からず、軽いパニック状態のまま桃子は急いで店から出た。
「お前、何してんだよ」
佐藤は柚琉の足を蹴った。
「えっ……」
桃子と同様、放心していた柚琉はハっと佐藤を見た。
「行け!」
「……!」
弾かれたように柚琉は走った。
ゆっくりと歩いていた桃子をすぐに見つけた。
「桃ちゃん!」
百貨店の通路。
午前中の店内はどこも客がまばらで、そばにいた店員は皆二人を見た。