好きという気持ちだけで全てうまくいけばいいのに

●● 21 ●●

   

愛しすぎる声に、景色は止まった。 
 
 
桃子もまた、動けずにいた。
停止した背景の中、ゆっくりと柚琉が近づいてくる。

(柚琉……)

言葉が出なかった。
近づいてきた彼が、桃子の一歩前で立ち止まる。

柚琉の視線で、桃子は完全に固まってしまう。
どうしていいか、何と言っていいのか分からなかった。
柚琉は眉間にしわを寄せ、困ったような顔をしていた。
その瞳の奥は深くて、彼の気持ちが手に取るように桃子にも伝わってくる。

(ああ……)
喉が詰まってしまう。
言いたいことが、胸のあたりで破裂しそうだというのに。

髪を黒くした彼は、以前よりも少し痩せたようだ。
しかし雰囲気は変わっていても、あの時から何も変わっていないような気がした。
――― 胸が熱くなる。
目の前にいる彼の姿に、抑えていた想いがこみ上げて来る。


(柚琉……!)


再び心で彼の名を呼んだとき、固まった体を溶かすように涙が一筋、こぼれた。

桃子の涙が合図のように、柚琉の体が弾かれる。

「…………!」


ほとんど無意識に、柚琉は桃子に手を伸ばしていた。
そして桃子の両肩に腕を回し、しっかりと自分の胸へと抱き寄せる。

「……やっぱ…」
小さな声で、柚琉は桃子の耳元で言った。

「駄目だよ………。離れらんねえよ…」

柚琉の腕に力が入った。
久しぶりの彼の温もりに、桃子は倒れるかと思うほど動悸が激しくなってくる。
柚琉は溜息のように、言葉を漏らした。


「やっぱり…離れたくないよ……」

最後は思わず声が震えてしまった。
固まったままの桃子の気配を察して、柚琉は抱きしめる腕をゆるめた。
彼女の肩に手を乗せたまま、体を離す。
(桃ちゃん……)
桃子は下を向いていた。

柚琉はチラチラとこちらを見ている周りの店員の視線を感じた。
「…………」
桃子の手を取ると、柚琉は歩き出した。

(初めて会った時も、こうして歩いたっけ……)

あの時も手を引っ張りながら、店舗の脇を歩いた。
あれからまだ半年も経っていない。
桃子との関係がこんなにも変化するなんて、当時の柚琉は考えもしていなかった。
(もう……、離したくないんだ……)
柚琉は思わず自分の手の中にある桃子の手を、ギュっと掴んだ。


通路の先、階段の途中にある踊り場のベンチに二人は座った。
平日の午前中の百貨店は閑散としていて、そこは人通りもなく静かだった。
「…………」
隣に座っても、柚琉は桃子の手を握ったままでいた。

痛いぐらいに握られたその手を、桃子も離そうとは思わなかった。
彼の手の力に、彼の自分への想いを感じた。
そして自分の中にある彼への想いも同じように力強く、内から湧き上がっていくのが分かる。

お互いに何と言っていいのか分からず、しばらく沈黙が続いた。

――― 柚琉は怖かった。
会いたくてたまらなかった桃子と思いがけず今 再会したものの、また拒絶されれば自分の中の芯がボキリと折れてしまうような気がした。
桃子への想いも、自分自身も、壊れてしまうのではないかと思った。
「………」
慎重に言葉を選ぼうとするあまり、結局何も言い出せない。

店内にかかる音楽が遠巻きに聞こえた。
時折入るアナウンスで、時間の経過を察した。

桃子の手を握る柚琉の手は相変わらず力が入ったままで、じっとりと汗ばんでくる。
(このままで、……いられたら……)
柚琉に握られた手をチラっと見て、桃子は強く思う。
彼に再会した瞬間から自分の中で弾けたドキドキが、しばらく経った今でも体中を巡っていた。
(柚琉が、好き………)
すぐ隣にある彼の存在を思うと、想いは溢れて止まらなくなりそうだった。
先ほど思いがけず伝った涙が、またこみあげそうになるのを桃子は堪えた。


「仕事中、だから………」

白い床に響く桃子の言葉に、柚琉はハッとした。
「…………」
この再会は無かったもののように、そのまま流されてしまう予感がした。
(桃ちゃん……!)
柚琉は頭が真っ白になるほど焦ってくる。
桃子の手を握る指先が、少し震えてしまう。

「ここじゃ、話せないし……」

初めて桃子が柚琉に握られた手を動かした。
完全に固まった状態の彼の手が、桃子の動きに合わせて力を緩めていく。
そっと、桃子は柚琉の手から自分の手を抜いた。

「…………」

不安そうな柚琉と目が合う。
(愛しい………)
桃子の心は柚琉への気持ちで一杯になってしまう。
このまま、すぐにでも彼のことを抱きしめ返したかった。


「今日の夜……時間があれば、うちで話す…?」

「えっ……」
予想もしていなかった桃子の言葉に、柚琉は一瞬反応できなかった。
「あ、……うん…………うん!」
(『うちで』……って、言ったよな?今)
半信半疑のまま、それでも柚琉は大きく頷いた。

「じゃあ、……あとでメールするから……。柚琉もお仕事に戻ってね……」

桃子は立ち上がった。
柚琉も後について、ゆっくりと腰を上げる。
桃子は数歩進んで、振り向いた。

「佐藤さんに怒られちゃうよ…?」
そう言った桃子の顔は笑顔で、柚琉もつられて少し表情が緩んだ。

急ぎ足で桃子は階段を下りて去っていく。
そんな後姿を柚琉はただ見送った。

「ああ……」
完全に桃子が見えなくなると、ガックリと全身の力が抜けて再度ベンチに座り込んだ。
「はあ……」
彼女の手を握っていた右手を顔に当て、左手も合わせて自分の頬を擦った。
今更ながらに、両手が震えていることに気付く。
「ははは……」
自然と笑ってしまう。
心の中に作っていた壁が、崩れていくのを感じた。
塞き止めていた想いが、一気に体中を駆け巡っていく。
「はは、は……」
柚琉は下を向いて、両手で顔を覆った。
目には涙が溜まっていた。



手や肩や背中に感じた柚琉の温もりが、桃子の体から離れなかった。
それどころか、その温もりは時間が経つにつれて体の内部へとジワジワ浸透していくような気がした。
(柚琉………)
すでに心は、完全に柚琉一色になっていた。

(会いたい……)

行動は気持ちを上滑りのまま、桃子は淡々と事務作業を進めた。
それでも今朝早く出勤したおかげで、今日中にやらなければいけない仕事はなんとか全て終わりそうだった。
(柚琉に会いたい……)
どうして今まで毎日を過ごしていけたのかと思うほど、何もかもが手につかなかった。
(こんなにも、柚琉が全てなのに……)
心の中で、何度も今朝の柚琉を思い返した。
何度も何度も、柚琉の顔を思い返した。



珍しく早番だったせいで、柚琉は夕方の時間を持て余した。
空いた時間を潰すために、時折行く漫画喫茶に入った。
個室に区切ってあるところに入り、パソコンを立ち上げてなんとなくインターネットの画面を開く。
「………」
時計ばかり見てしまう。
(あー…あと何時間だよ)
溜息をつきながら、フリードリンクのコーラに手を伸ばした。

あの後、佐藤には何も言われなかった。
月末のバックヤードでの作業や接客で、午後からの佐藤が忙しそうにしていたというのもある。
それでも彼の気遣いを柚琉は感じた。
(サンキュー……キヨ先輩)
今日桃子に会えたのは、おそらく佐藤の配慮もあったのだろうと薄々思っていた。
(大人だよなあ、清勝さん……)
それに比べて自分は子どもだと思う。
今朝、別れ際の桃子の柔らかな態度にも大人を感じた。
(オレも大人になりたい……)
柚琉は思わず机に突っ伏した。

「…………」
久しぶりの桃子の感触を思い出す。
戸惑った表情や、固い仕草。
そんな彼女も、やはり愛しい。

(早く、会いたいよ……)
時計を見ても、たいして時間が経っているわけではなかった。
「はあ……」
今朝の猛烈な不安は、今の柚琉にはもうなかった。
別れ際に見せてくれた桃子の笑顔が、希望を見せてくれた。
拒絶されたわけではなかったというのが分かって、少し安心したのだ。
(今夜会えるという約束…)
桃子にああ言われても、柚琉はまだ信じられなかった。
会いたくてたまらなかった彼女に、もうすぐ会える。

(早く会いたい……早く……)

1秒が5分にも感じられた。
桃子が想うように柚琉も、急く想いで体がどうにかなりそうだった。




晴れた冬の夜。
冷えた空気はどことなく澄んだ感じがして、吸った息で体の中がキンとなる。
桃子は思わず身震いをして、ホームを早足で歩いた。
改札へと向かう階段を、急いで降りていく。
動悸は激しくなる。
メールで約束をしたものの、柚琉が来ているかどうか少し不安だった。

「ああ……」

改札口の向こう、遠くに彼がいた。
どんなに人がいても、桃子の目には柚琉の姿だけが浮いて見えた。
彼は黒いダウンのポケットに両手を入れて、少し首を曲げて立っている。
その立ち姿を見て、クリスマスに見かけた彼に似た人が柚琉だったということを確信した。

(柚琉………)

今朝彼の表情を見ただけで、今も自分のことを強く想っていてくれていることが分かった。
そして、自分が抑えていた彼への想いの大きさも痛感した。

(クリスマスの夜も、ここで私を待っていてくれたのかもしれない…)
会える偶然を、待っていてくれたのかもしれない。
その時も、きっと彼は自分のことを想っていてくれたのだろう。
(つまらないプライドで、別れを決めた馬鹿な私を…)

愛しすぎる彼……


桃子はゆっくりと一歩ずつ彼へと歩む。
すぐに柚琉も桃子に気付く。
ただ立っているだけの彼のその表情も、まわりの空気も、柚琉の全てが桃子に向かってくる。
まだ離れているというのに、柚琉の想いに包まれてしまう。
ゴクンと、喉が鳴る。


(私だって………柚琉が大好きだよ…)


桃子は改札口へ走った。

 

ラブで抱きしめよう
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