好きという気持ちだけで全てうまくいけばいいのに

●● 22 ●●

   

「……………」
「……………」

あんなにも忘れようとして、それなのにいつも頭の中にあった姿が、ここにある。
そしてこの場所に。
 
 
今朝の涙を また繰り返しそうになって、桃子は気持ちを抑えた。

高架を通り過ぎる電車の音が頭上に響く。
改札口から、また人が溢れ出してきた。

「……お疲れ様……」
やっと、桃子は声を出せた。
「桃ちゃんこそ、お疲れ……」
柚琉も、できる限り普通の調子で答えた。

こんなにもドキドキしたことが、かつてあっただろうかと思う。
緊張感と、嬉しさと、興奮と、切なさと、……様々な想いが混ざっていた。

「待ったんじゃない……?」
彼を気遣って言ったつもりの桃子のその言葉さえ、今の二人には重い意味を含む。
「……いや……」
柚琉は小さく首を振った。
「……」
桃子は 吐く息の白さで、改めて外の寒さを知る。
「……うちで、……いい?」
「………うん」
柚琉の返事を聞くと、桃子はすぐに歩き出した。


駅を出て、何度も二人で歩いた道を、再びこうして通る。
柚琉は、こんな事はもう二度とないだろうと半ばあきらめていた。
(夢、じゃないよな……)
今朝、桃子に会った時から、柚琉は文字どおり地に足が着いていないような、そんな気分だった。

歩いている二人の微妙な距離が、更にお互いを緊張させる。
黒いダウンのポケットに両手を入れたまま、柚琉は歩いた。
桃子は片手にバッグを持ち、片手でコートの襟元をおさえていた。
何と言っていいのか分からず、二人は黙ったままでいた。

まだ時間が早く、商店街はどこも営業していて道は明るい。
「………」
特に会話もないまま、歩みを進めた。
コンビニを通り過ぎると、急に歩道は狭くなる。
二人で並ぶと幅一杯になるその道に、駅へ向かう人が歩いて来る。
「………」
自然と柚琉は桃子の前に出た。

若いサラリーマンが通り過ぎていく。
完全にすれ違った後、柚琉は桃子の隣へと戻る。


(あ……)

バッグを握る右手に、そっと柚琉の手が触れた。
壊れそうなものを撫でるように、柚琉の指先がバッグを掴む桃子の指の上を滑る。

(……柚琉…)

ドキドキが、一気に高まっていく。

ギュっと持ち手を掴む桃子の指を解くように、柚琉の指がさらに優しく触れてくる。
柚琉は桃子のバッグを持つと、すぐに反対の手に持ち替えた。
空いた桃子の右手を、柚琉の左手が包む。

(どうしよう……)

何度も触れた指先が、こんなにも愛しいなんて―――

改めて自分の中から湧きあがり込み上げる気持ちに、桃子は圧倒される。
ドキドキしてしまう。
切なくて、泣けそうで、……思わず目を伏せた。




桃子の部屋が見えてきた。
二人でこうしてマンションの廊下を歩くだけでも、柚琉はクラクラしそうに感激していた。
柚琉のドキドキもまた、既に限界を超えそうだった。

桃子が鍵を回す。

部屋のドアが開いた。
――― 彼女の匂いがした。


(ああ……桃ちゃんの部屋だ……)

懐かしさに、胸が一杯になる。
彼女への想いが体をグルグル回り、このままでは自分が外側から壊れてしまうんじゃないかと柚琉は思う。

「あ、……えっと、散らかっててごめん…ちょ、…ちょっと待ってね…」
電気を点け、コートを脱ぎながら桃子は足早に部屋の真ん中へと進む。
玄関から短い廊下を抜け、柚琉はゆっくりとリビングへ入った。

「いいよ、桃ちゃん」

「えっ?」
意外な柚琉の言葉に、桃子は驚いて立ち止まり、振り向く。
柚琉はまっすぐ桃子を見ていた。


「……そのままで、いいよ」


彼の視線で、一瞬にして桃子は動けなくなってしまう。
気がつくと、柚琉はもう 桃子のすぐ前に来ていた。

「ゆ………」



柚琉、と言葉になる前に、桃子の唇は彼に塞がれた。
緊張して強張っていた体も心も、一気に緩んでいく気がした。

(ああ……)

ドキドキは突き抜けて唇から溢れ、柚琉の鼓動と絡まっていく。
舌が歯が唇が、求め合う以上に切実な想いを伝え合う。

(柚琉……柚琉……柚琉…)

桃子は何度も心の中で柚琉の名を呼んだ。
抑えていた気持ちが、唇を伝い溢れ出して止まらない。
彼の舌の熱さも、何もかもが愛しく嬉しかった。

「ん……うんっ…」

一瞬逸れても、また追いかけ合う。
唇は、なかなか離れなかった。
やがて桃子の膝がガクンと落ちた。


「だ、……大丈夫?」
柚琉は慌てて半分膝を折った桃子を支えた。
「……あ、……うん」
彼の腕にすがりつくようにして、桃子は立ち上がろうとする。
「いいよ……そのまま、座って」
そっと自らも低くなりながら、柚琉は桃子をベッドの端へ座らせた。

「はあ……」
桃子は溜息をついた。
体中がドキドキして、息が上がっていた。


柚琉も隣に腰を下ろした。
「…………」
唇に残った生々しい桃子の感触に、柚琉も動悸が止まらなかった。
「ごめん……急にキスして…」
言いたい事は色々あった。
部屋に入るなり襲い掛かるような事だけはやめようと思っていたのに。
それでも実際に二人きりになると、やはり自分が抑えられなかった。

「ううん……」
桃子は首を振った。

「…………」
「…………」

柚琉は自分の膝を見つめ、しばし考えた。
今の気持ち、これまでの気持ちを表す言葉が全く思い浮かばなかった。
(何て言うか……)
じれったくて、指をギュっと握り締める。

(ただ、……好きなだけなんだよ…)

意を決して、柚琉は桃子を見た。
彼女もすぐに柚琉へと視線を上げた。
「柚琉」
泣きそうな顔へと崩れ、桃子の手が伸びてくる。


「ごめんね……ずっと………好きだったのに…」


伸びた手が、柚琉の肩へと回った。
(桃ちゃん……)
柚琉も、桃子の背中へと手を回す。
桃子の顔が、柚琉の胸と肩へ押し付けられる。

「ごめんね…柚琉……ごめん…」


「…………」
(いいんだ……もう…)
返そうとした言葉が、喉を通らなかった。
ただ、桃子を撫で、頬を彼女の髪に摺り寄せた。


(なんでこんなに好きになっちゃったんだろうな……)

柚琉は桃子を抱きしめて、久しぶりに自分自身に返った気がした。
(なんでこんなに好きなんだろう……)
彼女に回した腕に力が入る。

(けど、もう絶対………離さない……)

首元で泣く桃子をギュっと抱きしめ、柚琉は強く思った。

 

ラブで抱きしめよう
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