「こんにちはっ。清勝さん」
「ああ、若菜ちゃん…」
佐藤は伝票をチェックする作業の手を一旦止めた。
「相変わらず、可愛いねえ〜」
制服の若菜を、佐藤はじろじろ見て言った。
「何言ってるんですかー、清勝さんだっていつもカッコいいですよー」
そう言って若菜は笑い、ハンガーにかかっている服を少し触る。
「今日はアイツ、休みだけど?」
佐藤は奥に設置してある白い小さなカウンターから出てきた。
「ああ、今日は買い物でもしようかなと思って、ついでにちょっと寄っただけですから」
若菜はにっこりと笑った。
背の高いすらっとした体に少し染めた長い髪が似合う。
制服の短いスカートからは、細く長い足が伸びている。
顔が小さくてバランスのいい若菜は、普通に歩いているだけでも人の目を引いた。
「昨日、柚琉、なんか大変だったんですか?」
若菜の言葉に、佐藤は一瞬きょとんとしたがすぐに答えを返した。
「いやあー?柚琉は何気にいつもよくやってくれてるけど?」
怪訝そうな若菜を見て、佐藤はフォローしようと言葉を続けた。
「あいつ、結構頼りになるとこあるし」
「…そうですか」
若菜の表情が一変して、笑顔に戻る。
その後ろから、店へ客が入ってきた。
「いらっしゃいませー」
佐藤は客へと明るく声をかける。
「すみません、忙しいところ……。それじゃあ」
「あ、じゃあまたね。柚琉によろしくね」
そう言うと佐藤は、さりげなく客の方へと歩み寄った。
(アイツ……ウソつきやがった…)
店に背を向けた若菜はムっとして、カバンに手を入れて携帯を掴んだ。
「ハーア……メールも、来ねえよなぁ…」
専門学校の教室で、イスにだらしなく座って柚琉は携帯をいじっていた。
昨晩から若菜のメールばかりが入っていて、桃子からのメールは一通もない。
(まあ、昨日の今日だし……)
メアドを教えあったとは言え、桃子とは頻繁にメールをするような間柄ではなかった。
それなのに、今日の柚琉は気になって仕方がない。
(昨日の、キスは……引かれたか…?)
帰り際に桃子にちょっとキスしてしまった事を、柚琉は後悔していた。
(でもよー……桃ちゃん可愛かったし……)
キスした後のびっくりした桃子の反応も、柚琉のテンションを上げた。
(だけど、…やっぱりまずかったか…?桃ちゃん真面目そうだし…)
昨晩のキスに対する桃子の今の気持ちが、知りたくて仕方がなかった。
(怒ってるかなあ、もしかして…)
一人、色々と考えて悶々とする。
また携帯を開いた。
ついさっきチェックしたばかりのメールを、またチェックする。
(何だよ、…これじゃあ若菜のこと言えねえじゃん)
ちょっとメールしないだけで何事かと思うほど怒る彼女の気持ちが、柚琉は少しだけ分かったような気がした。
(はー、オレからメールでもするかなぁ…でも更に引かれたりして…)
携帯電話を開いては閉じ、していると唐突に手の中でブルブルと震えた。
(桃ちゃん……!?)
柚琉は慌ててメール画面を開く。
「んだよ、若菜かよ……」
川を臨むビルのガラス張りのエントランスの中には、午後の強い陽射しが差し込んでいた。
受付は無人で、来客に対応するためのタッチパネルが置いてある。
がらんとした1階のロビーで、ひとりベンチに座る雅人は再度書類を確認してカバンに入れ直した。
携帯を開いて、会社のパソコンから転送している自分へのメールを見る。
操作しているとき、ふっと桃子のアドレスが目にとまった。
「昨晩も、行けなかったな……」
申し訳ないとか、ごめんとか、そんな言葉を桃子に何度言っているんだろうと雅人は思う。
(最近オレが連絡をとるときは、いつも謝ってばかりだな…)
思わず苦笑した。
担当している関西のメーカーがゴタゴタしていたり、後輩の指導を任されていたり、最近の雅人は多忙だった。
それに仕入先の社長がゴルフが好きで、頻繁に雅人を誘ってくる。
その影響で雅人自身も最近はゴルフにはまりつつあった。
そんな状況で、休日まで予定が入ってしまう事が多かった。
文句を言ってこない桃子のことを、どうしても後回しにしてしまう傾向にあった。
(彼女との関係も、考えないといけないかもな…)
雅人は立ち上がる。
携帯電話をズボンのポケットに押し込むと、無人の受付に向かって歩き出した。
「今日は、よく晴れてるねえ〜」
眩しそうに外を見ながら、智沙は言う。
「もう10月だよ?冬物が売れない、っていうの納得。まだ半袖でもいけるよ」
桃子はアイスティーのストローをクルクルと回した。
営業中に智沙と待ち合わせをして、会社から少し離れたビルに入っている喫茶店で休憩をした。
「今月も、売上伸びないなぁ〜。暖冬でもこの業界は寒いよね〜」
「はは…」
智沙の言葉を半分聞き流しながら、桃子は昨晩の柚琉のことを思い出していた。
今朝から、何度も柚琉のことを考えていた。
唇には触れていなかったけれど、キス。
思い出すたびに、ドキドキしてくる。
「はあ〜〜〜」
「なんだか、今日の桃子は変」
智沙はじっと桃子を見た。
「変かあ〜……変かもね……」
キスをして体を離した時の、照れたような柚琉の顔。
(可愛いんだよね……なんかいちいち…)
昨晩は唐突に電話をしたのに、柚琉がすぐに来てくれたことが桃子はすごく嬉しかった。
(なんだか、気が合っちゃってるみたいだし……)
何かにつけ、手を繋いでくる柚琉。
だが桃子は全く嫌ではなかった。
(何なんだろう……この感じ…)
自分に向かってくる笑顔の素直さに、癒しを感じる。
(まさか……うそうそ、だってすごい年下だし…)
それでもこのドキドキ感は久しぶりで、桃子は戸惑ってしまう。
(可愛いんだよね……ほんとに…)
「ちょっと桃子!」
「はい?」
「なんかニヤけてるんだけど」
智沙は笑いながら言った。
「うそぉ、…うっそー?…」
我ながら恥ずかしい、と桃子は思った。
(ホントに、何考えてんのよ……)
「もう、戻ろうか。なんかここ、暑いし」
智沙の視線を痛く感じながら、桃子は伝票を持って立ち上がった。
会社に戻ってからも、桃子はなかなか仕事に集中できないでいた。
「桃子っ」
小声の大声で、隣から智沙が桃子へ声をかけてくる。
「メール、見た?瀬野主任が!」
「えっ?何何?まだ見てない」
桃子は慌ててメールを開いた。
辞令が出ている。
【主任 瀬野雅人 大阪支店転勤】
(うそ………)
桃子は目を疑った。
(雅人が、大阪………?)
モニターに映し出される文字を見ても、桃子はピンとこなかった。
(転勤……こんな、急に…)
「ちょっと、……トイレ」
智沙にそう言って立ち上がると、桃子は携帯電話を持ってフロアを出た。
「あっ!」
廊下でいきなり雅人と出くわした。
「雅人……転勤って…」
桃子は思わず近付いて声を荒げてしまう。
「オレも、ついさっき正式な辞令を聞いたとこだ。…覚悟してくれ、とは言われてたんだけどな」
「そう…そうなの?」
(どうして言ってくれなかったの?)
こんな状況なのに、桃子はそんな雅人が少し腹立たしかった。
「今、ちょっと総務に行ってこないといけないから…」
雅人はドアの方をチラリと見た。
「あっ、…そうなんだ…」
急な辞令を受けた雅人本人の方が、きっと戸惑っているんだろうと桃子は思う。
桃子が一歩下がりかけたその時、雅人が言った。
「今夜、電話する……近々、改めて会って話そう」
「えっ……」
雅人のいつもとは違う真剣な眼差しに、桃子も急に緊張してくる。
桃子は歩み出した雅人をすがるような目で見上げた。
「じゃあ」
彼は手を伸ばして桃子の肩をポンと叩くと、桃子を通り過ぎてドアを開けてフロアへと入っていった。
(雅人……?)
『改めて会って話そう』という一言が、心にいつまでも引っ掛かっていた。
(話、って…なんだろう…)
イヤな予感がしてくる。
「あれ、こんな所でどうしたの?羽生さん」
「あっ」
先輩社員から声をかけられるまで、桃子はしばらく廊下から動けなかった。
柚琉と雅人の間で、浮かんだり沈んだりを繰り返してしまう。
二人に、心を揺らされていた。