好きという気持ちだけで全てうまくいけばいいのに

●● 7 ●●

   

柚琉の言葉は、部屋に残った桃子の中に重たく響いていた。

(一緒にいたくて仕方がなくって、そうお互いが思い合う……)

「はあ……」
明日は月曜日だ。
桃子は複雑な気持ちのまま服を脱ぎ、シャワーを浴びた。
「明日は、……仕事か…」
パジャマを着てフリースのパーカーを羽織り、ベッドに横になる。
枕元の電気だけを点けて、布団をかけた。
目を閉じれば眠れるかと考えたが、なかなか寝付けない。

「プロポーズ……されたんだよね……」

(大阪に、ついていくの…?)
無意識に左手の薬指を右手でなぞっていた。
(雅人は私のこと………)
桃子は固く目を閉じた。
(付き合っているわけだし、もう26歳だし、交際だって3年経っているし、…やっと言ってくれたって気持ちはあるけれど……)
両手を握り締める。
先ほど柚琉に両手首を握られた感触を思い出した。
(柚琉……)
抱かれれば良かった、と桃子は思う。
抱かれれば、やっぱり軽い子だったんだと諦めがついた。
そして自分自身が彼へと求めるものも、それで解消されるような気がした。

「おかしいよ……私…」

情けなくて、つい笑ってしまう。
(これじゃあ浮気だ)
自分が付き合っているのは雅人だ。

柚琉は自分よりもずっと年下で、ちゃんと可愛い彼女がいる。
それに別に彼から告白されたわけでもないし、年上の自分に本気になるとも思えなかった。
(だから…考えないようにしてた)
柚琉のまっすぐな目に、いつもドキドキしていた。
軽くキスされた時も、そして今日部屋に入ってきた時も、そのドキドキをなんとか抑えようとしていた。
(まだ出会ったばかりだし、すごい年下なのに……)
彼のことをあまり知らないというのに、彼のことは何故だか理解できる気がした。

本気になりそうな自分が怖かった。
それでも、急な呼び出しにいつでも駆けつけてくれる柚琉は、桃子にとって新鮮で、会うたびに感動させられてしまう。
―― どうしても彼を見てしまう。
「ダメ……」
(あのまま、おとなしく目を閉じていたら……)
想像してしまう自分に首を振った。

「雅人のことが、今だって好きなのに……」
桃子が雅人に求めているものは、雅人からは与えてもらえないような気がした。
そして多分それは現実で、これからも一生変わっていかないように思う。
「好きなのに………」
柚琉へと押し流されそうになる感情を、抑えていけるのだろうか。

雅人を、好きでいなければいけないような気がする。
柚琉を、好きになってはいけないと思う。

そう頭で思えば思うほど、自分の気持ちがはっきりと浮かび上がってしまう。
この指が触れたいと求める彼は、桃子の中で明るい笑顔を見せる。

「どうしたらいいの……」
雅人と付き合いだした頃の自分を思い出して、桃子は少し泣いた。



「あいつーーー超ーー、挙動不審なんだけどーーー」
教室の自分の席で、若菜はストラップの沢山ついた携帯を閉じた。
「若菜ー、現社の教科書貸して」
「珍しいじゃん…梨香」
1年の時に同じクラスだった梨香を見ながら、若菜は机に手を入れて教科書を探す。
「なに、ボヤいてんの?もしかしてー、青木先輩のこと?」
髪を茶色く染めて先を巻いている梨香は、学校の中でも目立って派手だ。
若菜とは趣味が似ていて、1年の時はよく一緒に遊んでいた。
今でも時折一緒に出かけたりはするが、梨香の対抗心剥き出しの態度に若菜は少し辟易している。
柚琉がまだ高校にいた時、梨香も彼のことをかなり気に入っていたのだ。
「べつに、…柚琉とはうまくいってるし」
若菜は現代社会の教科書を机の上にバサンと置いた。
「ふーん……青木先輩、相変わらずカッコイイのかなぁ〜」
教科書に手を伸ばしながら、梨香は若菜の携帯に貼られた柚琉のプリクラをチラリと覗いた。

「意外に、続いてるよね」
「意外、って何よ」
他の人に言われるなら何でもないことでも、梨香に言われると若菜はカチンとくる。
「んー?若菜にしては、ってことだよ。じゃ、借りてくね。サンキゥ」

去っていく梨香の冬服の後姿を見送りながら、若菜はため息をついた。
イライラするのは、梨香の態度のせいじゃなかった。
(柚琉、最近何か態度がおかしい…)
見ないようにしていた不安が、リアルに迫ってくる予感がする。
「ああーー、もう」
メールをしようと携帯を開くと、教師が教室に入ってきた。



百貨店の営業時間が延びた分、バイトである柚琉のシフトが最近は増えていた。
専門学校が終わると、その足ですぐに遅番で店に入る。
今日は佐藤と柚琉の二人だった。
柚琉はレジカウンターで、服を入れた大きな紙袋を客に渡す。
「ありがとうございましたー」
礼をする柚琉の背中を佐藤が叩いた。
「エライ、お前。今なかなかジャンバー出ないんだよ」
「ってゆーか、最近急に寒くなったせいじゃないっすか」
佐藤に褒められて、柚琉は少し気分が良くなる。
昨晩からずっと落ち込んでいたのだった。

その日は月曜だというのに、柚琉の言うとおりに寒くなったせいもあってか、店は閉店までバタバタしていた。

「いいよ、あとオレが処理しとくから。柚琉上がって」
「やることあれば、手伝いますよ」
その時、柚琉のズボンに入った携帯が震える音がする。
佐藤は柚琉を見て、ニっと笑う。
「なんか今日、お前疲れてそうだし…大丈夫だから上がっていいよ」
「すんません…」
見透かされたかと思いつつ、佐藤に挨拶をして柚琉はバイトを上がった。

ポケットの携帯を手で探る。
100%違うと分かっていても、桃子からのメールだったらと期待してしまう。
(やっぱりな……)
若菜からのデートの催促メールだった。
ほとんど毎日のように会っているというのに、今日は彼女との約束を入れなかった。
(若菜……)
若菜の容姿を、柚琉はすごく気に入っていた。
毎日会えることは嬉しかったが、付き合う時間が経つのに比例して若菜の柚琉に対する束縛がひどくなってきていた。
とくに若菜がちょっとしたことですぐに自分に突っかかってくるのが、柚琉にとって最近は負担になり始めていた。

「はあーあ…」

混雑した電車に乗って家に向かう途中、桃子の住んでいる駅を通り過ぎる。
そこを通るたびに、桃子のことを考えてしまう。
(やっぱり、結婚するのかな……)
電車の窓に見えるのは夜の景色ではなくて、人の間で小さくなっている自分の姿だった。
(桃ちゃんの彼氏、大人なんだろうな…)
モヤモヤとしてくる。
自分には見せない表情を桃子が彼氏に見せているんだろうと思うと、切なくなってくる。
顔を上げた柚琉の目に、中吊り広告のブライダル写真が見えた。
普段なら全く気にも留めないその写真が、柚琉の意識にひっかかって去らない。
桃子のウエディング姿を想像してしまい、ますます柚琉は凹んだ。

自分の家に着き部屋に入ると、柚琉は若菜に電話をした。
『バイト、お疲れ〜〜。今日はどうだった〜?』
電話の向こうの彼女の声は、普段よりも明るい感じがした。
「今日はなんだか結構売れたし、忙しかったよ」
確かに忙しくて、疲れていた。
携帯を持ったまま、ストライプのカバーがしてあるベッドに横になった。
『売れたんなら、良かったじゃん。って柚琉は時給だから関係ないか…そうそう聞いてよ、今日、梨香がさぁ〜〜』
柚琉は若菜の話に適当に頷いた。
昨晩、自分が押し倒したときの桃子の顔が浮かんできて消えなかった。
『柚琉?聞いてる?もしかして、なんか元気ない?』
「ああ……わりぃ。眠い……。また明日な」
何か言っている若菜をなだめて、柚琉は携帯を閉じた。

(桃ちゃん……)
昨晩のこともあったし、柚琉は桃子に電話をしようかと一瞬思う。
それでも実際に行動に起こす勇気が出なかった。
(何、話すんだよ……)
「はあ…」
携帯電話を手の届かない遠くへと軽く投げた。
「あーー」
桃子と話すときの、落ち着いた空気感が好きだった。
バカばっかりやっている自分まで、少し大人でいられる気がした。
(若菜が子どもっぽいから、桃ちゃんが魅力的に見えるだけなのかも…)
柚琉はそう思おうとしたが、自分が彼女に惹かれるのはそれだけではないのは分かっていた。
「オレも、ガキだよな…」
(それも、性欲剥き出しの、ガキ)
「はああーー」
また自己嫌悪に襲われる。

(若菜で、いいじゃん。……桃ちゃんは社会人で、オレより大人で…)

桃子には心を動かされる。
その振れは、柚琉の理性では抑えきれないほどの波動で、気持ちを揺さぶってくる。
「なんなんだよ……マジかよ…」
携帯を開いては桃子のアドレスを見つめ、そんなことを柚琉は何度も繰り返した。


その頃、桃子は雅人からのメールを見ていた。
「まだ、会社なんだ……」
もう11時を過ぎていた。
本当に今週末には去ってしまうんだと、雅人の忙しさで桃子は実感する。
気持ちがぐらぐら揺れているのに、会って話すこともままならない。
「大事なことなのに…」
生涯をともに過ごす人を選択する、そんな重大な決断をしなければいけないというのに、二人には相変わらず一緒に過ごす時間がなかった。
「こういうの、すれ違いっていうのかなぁ…」
柚琉が言っていた『未来が開けていく感じ』、そんな光が見えれば何も迷うことはないはずなのに。
(迷ってる、って時点で……ダメなのかも…)
雅人に会いたかった。
会って、きちんと話したかった。



結局、雅人と二人の時間がとれたのは3日後の夕方だった。
桃子は定時ピッタリに会社を出て、雅人は仕事を一時抜けてくる形で、早い時間から営業しているベトナム料理店に入った。ここはお酒を飲むのもご飯を食べるのも、お茶だけをするのも自由な雰囲気の、気軽な店だ。

「お疲れ様……大丈夫?荷造りとか、進んでるの?」
「ああ、なんとか……。とりあえず詰めるだけ詰めて、整理するのは向こうに着いてからだな」
「そっか……引継ぎは、順調?」
「うん。何かあったらまた出張でこっちに来るし。ホントにとりあえず行ってみる、って感じかな」
下に色とりどりのタイルが敷き詰められたガラスのテーブルに、雅人はタバコの箱を置いた。
残り少なくなった中身を気にしながら、くわえたタバコに火を点ける。
「はあー、軽く食べるか」
アルコールは頼まずに、軽食とお茶を雅人は注文した。
(痩せたかも……)
桃子は雅人の首元を見た。
(ちゃんと、食べてるの…?)
彼氏の体調の変化さえよく把握できないこの関係を、やっぱりもどかしく思う。
「私にできることがあれば……」
「会社に戻って事務処理の手伝い、…なんて、お願いできないしな」
雅人は笑った。
軽く茶化された気がして、桃子は少し悲しくなる。
そしてチラチラと時間を気にしている彼の様子が、その悲しさに拍車をかけた。

「雅人………、私、…やっぱり…」

(すれ違っているのは、時間が合わなかったせいじゃない…)
本当は、以前から気がついていたのかも知れない。
(『大人(社会人)の付き合い』だから仕方がない、なんて…自分への言い訳だ)

本当は、もっと一緒にいたかった。
本当は、もっと自分を求めて欲しかった。

もっと、自分に夢中になって欲しかっただけだ。
ただそれだけだった。

 

ラブで抱きしめよう
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