好きという気持ちだけで全てうまくいけばいいのに

●● 9 ●●

   

若菜からは何度かその後もメールが来たが、結局柚琉は返事を出さなかった。
1週間を過ぎた頃には、彼女からのメールも入らなくなっていた。
ここで返信したならば、おそらくすぐに関係が元に戻るだろうという事は分かっていたが、一度決意した気持ちは揺るがなかった。
一方で、桃子に対しても何のリアクションもとれないままだった。

「キヨ先輩、……桃ちゃんって、まだここ担当してるんすか?」
「?……変わってないよ?なんで?」
佐藤は、柚琉と桃子が親密になっていることを知らない。
「…最近、来ないなって思って」
確かに桃子とは最近ここで顔を合わせていなかった。
日中の店内に客はおらず、今は佐藤と柚琉の二人だ。
「羽生さんは、そんなに頻繁にここには来ないぜ」
「…そうっすか」
そういえば佐藤に桃子の噂を聞いた後、実際に本人に会うまでかなり時間が経っていたのを柚琉は思い出した。
「残念だな、柚琉」
佐藤は一瞬ニヤっとするとすぐに通路の方へ目を向けた。

(まだ、仕事してるんだよな……って当たり前か)
結婚を決めたからといって、すぐに会社を辞めるわけではないだろう。
桃子と出会ってから、何だかんだ言っても割と頻繁に顔を合わせていた。
こんな風に1週間以上、何の音沙汰もなく離れてたのは初めてだった。
(もう会えなくなんのかなあ…)
せめて、その後どうなったか聞くだけでも聞いてみようかと柚琉は思う。
バイトの帰り道、携帯をジャンバーのポケットの中で握り締める。
「さびぃ…」
(今日は、やめとこう…)
案外意気地の無い自分に対して軽く情けなくなりながら、背中を丸めて柚琉は夜道を歩いた。


窓から見える交差点の街路樹はすっかり葉を落とし、冬の寒さに枝さえも震えるように見える。
昼下がりの専門学校の校内は、移動する生徒たちでザワザワしていた。
「彼女と別れてから、元気ないじゃん。青木」
「そんなんじゃねーよ」
パソコンの前で、柚琉は無意味にキーボードを触った。
授業は終わり生徒は次々と教室から出て行く。

「帰らねーの?今日はバイトか?」
「…帰るよ。バイトねーし。やることもねーし」
柚琉は黒いバッグをかぶって、体に斜めにかけた。
柏木は笑顔で、立ち上がった柚琉の横に並んだ。
「じゃあ、琢磨の家で久しぶりに麻雀やろうぜ」
「……麻雀かよ……」
あまり気乗りはしなかった。
それでも今の自分は何かに没頭した方がいいかも知れないと思い、柚琉は柏木について行くことにした。



「こんにちは……」
桃子はドキドキしながら、店内へと足を踏み入れた。
特に用事があったわけではなかったが、柚琉に会う口実が欲しかったのだ。
佐藤は接客中で、桃子を見ると軽く会釈を返してくる。
他に店員が一人いて、桃子に気がつくと彼も挨拶をしてきた。
店内をフラフラと見回したりしながら、桃子は佐藤の接客が終わるのを待った。

「すみません、お待たせして」
佐藤は笑顔で桃子に近付いてくる。
「近くまで来たので、…ちょっと寄ってみただけです。最近、どうですか?」
桃子は営業用の笑顔で答えた。
佐藤の他にバイトの子が既に一人いるので、今日は柚琉はここに来ていないのは分かる。
「寒くなってきたから、少し売上も伸びてきましたよ」
カウンターの中から、佐藤は台帳を取り出した。
「良かった…。暖冬って、この業界にとっては最悪ですもんね。私は寒いのはイヤですけど」
そう言って、かかっているジャンバーのファーを桃子は指先で少し触った。
「昨日、偶然にも柚琉が羽生さんの話をして」
佐藤は柚琉の様子が気になっていたので、何気なく話を振った。
「……何て、言ってました?」
『柚琉』という名前が出てきて、桃子はまたドキドキしてしまう。
動揺しているのを佐藤に悟られたくなくて、何でもないような顔を懸命に作った。
「何て言ってたかなぁ…。そうそう、最近会ってないみたいな事を言ってたかな」
「そうですか」
柚琉が自分のことを少しでも気に掛けてくれていた事が分かって、桃子は少しほっとしてそして嬉しくなる。
「来ない日に、羽生さんが来るなんて……あいつもついてないな」
含んだ笑いで、佐藤は桃子を見た。
佐藤に悪意がない事は、桃子には分かっていた。


店から出た後も、桃子はドキドキしていた。
(やっぱり、連絡しよう……)
あの夜に押し倒されて、二人の関係はそこで行き詰まってしまったような気がしていた。
二人はもう、そういう流れに飲まれてしまっているんだろう。
流れ着く先は、ハッキリしていた。
(ダメならダメだし……。柚琉に彼女がいても、…自分の気持ちは伝えたい)
このまま柚琉に何も言わないままでいたら、自分は一歩も前へ進めないと思った。
雅人と付き合っていた時でさえ、ずっと立ち止まったままでいた。あの時のように。


「あーあ、また2抜けかよ」
背中を伸ばして、柚琉は卓から離れた。
「いいじゃんか、負けてないって事で」
柏木は場にある点棒を自分の箱に戻す。
「4人メンツが揃ってんなら、オレを誘うなーっての。うぁー」
琢磨と場所を交替しながら、柚琉はまた伸びをした。
「またPSP借りるぞ」
柚琉はゲーム機を手にして、ベッドに寝転んだ。
タバコの煙が充満していて、部屋には牌を混ぜる音が響く。
狭い部屋で、男5人で麻雀をしているのもムサ苦しいものだと柚琉は思う。
それでも桃子の事から少し気が逸れて、この場の雰囲気に気持ちも緩んでくる。

しばらくすると、ズボンに突っ込んでいた携帯電話が鳴り始めた。
「なーんだよ……」
ゲームのスタートボタンを押して、一時中断させる。
どうせ男の友人からだろうと思い手に取ると、着信名を見て柚琉は飛び起きた。
「はいっ、もしもし??」
柚琉の裏返った声で、麻雀をしていたメンバーが一斉に彼を見る。

手で『まあまあ』と合図すると、柚琉は慌てて部屋の外へ出た。

「も、……桃ちゃん?」
外は既に日が落ちていた。
『うん、……今、大丈夫?』
「大丈夫大丈夫。……げ、元気??しばらくだったけど…」
声が上ずってしまう。
『元気よ……柚琉は?』
「オレは元気だよ。…………」
心の準備が何もないまま、唐突に入ってきた桃子の電話に、柚琉は心底慌てていた。
『そう……』
電話の向こうに、桃子の柔らかな気配を感じる。
「……」
言いたいことは沢山あると思っていたのに、いざ桃子と向き合うと何と言っていいのかさっぱり分からなかった。

『………』
「………」

(何だよ、なんか、言わないと……えっと…ああっ…)
上着を着ずに外に飛び出してきて、風の冷たさが身に染みる。
「あの、あのさ…」
柚琉が言いかけたとき、桃子が遮って告げた。

『私、…彼氏と別れちゃった』

「ええっ!!」
(ウソだろ!)
いきなりで、柚琉はかなり動揺した。
琢磨の部屋の前の廊下で、手摺を掴んで思わず無意味に体を振ってしまった。
「なんで?………なんでなんでなんで???」
『なんで、って言われても……一言では言い切れないものが…』
柚琉の動揺っぷりに反して、桃子は穏やかに話している。
「い、い、今、桃ちゃん…、まだ仕事してんの???」
(落ち着け、オレ)
大きく息を吸って、柚琉は生唾を飲んだ。
『会社出て……駅に向かう途中』
「じゃあ、じゃ、……桃ちゃんの駅で、待ち合わせよう!オレも話したいし…いける?」
『…大丈夫だよ』
そう言う桃子の笑顔が頭に浮かんで、柚琉は異常に興奮して、浮き足立ってくる。

「オレ、帰るから!」

玄関のドアを勢いよく開けて部屋に入ると、ベッドに投げてあった自分のジャンバーを掴んだ。
「なんだよ?女?」
柚琉の様子に、柏木が呆れて言った。
「……まあ、そんなもんだ」
思わずニヤけながら、柚琉は頷く。
凹んでいた自分の気持ちに、ぐんぐん空気が入っていくのが分かった。
「おーーー、それ、ロン」
琢磨の友人が柏木の捨てた牌を見て言った。
「うっ、…ってマジか!お前親じゃんか!」
「親バーイ。…じゃあ、柚琉、またな!」
「おうっ」
牌を崩す音がジャラジャラと響く部屋を後にして、柚琉は早足で駅へと向かった。



(相変わらずのフットワークだなぁ…)
桃子は電車に乗りながらも、柚琉のことを考えて気持ちが逸っていた。

(会える……)

会いたかった。
どういう風に切り出したらいいのか分からなくて悩んでいたのに、柚琉は簡単に、飛んできてくれる。
(やっぱり……好き)
会えると思うと、心の中にじわじわと喜びが広がっていく。
(…会いたかった……)
駅に着く間、何度も心の中で繰り返し思った。
例え柚琉に彼女がいても、彼が自分に対してとってくれる優しい態度は今夜も変わらないであろうことを桃子は確信していた。
どうしてだか、柚琉には気持ちを許せた。
心を開いて、素直に思っていることを口に出すことができた。
(会ったばかりだし、かなり年下だし、でも…)
そんな事はまるで関係がなかった。
理屈ではなかった。


電車を降り、階段を下っていく。
もう、すごくドキドキしていた。
(まだ、来てないかな…)
改札口が見えた瞬間、すぐ向こうに柚琉が立っていたのがすぐに分かった。
黒い服を着ていても髪の色が明るいから、人込みの中でも目立っていた。

「ゆず……」
「桃ちゃんっ」
柚琉もすぐに桃子を見つけると、大きく手を振って思い切りの笑顔を向けてきた。
(か、可愛い……)
久しぶりなのに、明るさは全然劣らずに真直ぐに光を見せる柚琉の姿に、桃子は胸を打たれる。

改札口を出て、すぐに柚琉は駆け寄ってきた。
桃子もつい小走りになる。
「待った…?」
「ううん、全然待ってない」
柚琉の吐く息が白い。
「…寒かったでしょ?」
ここは外の風がまともに入ってきて、行く人々は皆背中を丸めて足早に家路へ向かっていた。
「平気だよ。…桃ちゃんは、仕事お疲れ〜〜」
黒いジャンバーのポケットに両手を入れて、柚琉は背中を伸ばした。
先日の別れ方がウソのように、今日の二人の空気はもういつも通りだった。
そんな関係に、桃子はホッとしてしまう。
「やっぱり寒いね……どこかで、お茶する?それともご飯食べる?」

「うん……いいけど、…あのさ」

「??」
桃子が柚琉を見上げた時、彼のポケットから右手が伸びてくる。
その手は強く、桃子を引き寄せた。
(えっ……)
言葉を出す間もなかった。


「桃ちゃん、オレと……付き合って」

「……!」
柚琉の右手が、桃子の髪に触れる。
そして彼の首筋へと、桃子はギュっと抱き寄せられた。
「柚琉……」
彼の力が強くて、顔が上げられない。
寒くて、緊張して、ドキドキして……桃子の体は完全に固まってしまう。

「会いたかったんだよ……すげえ…。たった1週間ちょっとしか離れてないのに」
「……柚琉」
耳元で言う彼の声に、桃子はくらくらしてくる。
(会いたかった……って……柚琉も…?)


「付き合おうよ、桃ちゃん」

子どもを説得するような柚琉の口調。
そんな声にさえ、桃子は胸がキュンとしてしまう。
「柚琉…」
自然と桃子の体が彼から離れる。
久しぶりに、彼を間近で見つめた。
柚琉の表情は至って真剣で、桃子の返事も一つしかなかった。

「うん」

桃子はゆっくり頷いた。
柚琉の目が、みるみる大きくなっていく。

「……マジ?…マジで?ホントに?…いいの?いいの?桃ちゃん?」

柚琉はビョンビョン跳ねながら、自分の顔を両手で抑えた。
「柚琉、声、大きいって」
頭上を電車が通り過ぎる音がし、改札を抜ける人たちの視線が二人に向けられた。
「いいの?……オレなんかで?…マジ??」
少し声を落としながらも、興奮したまま柚琉は跳ねていた。
彼の表情の豊かさに、桃子は可笑しくなってくる。
「じゃあ、…やめとく?」
「いや、…ダメ!…………撤回は、なし!」

オーバーにリアクションをしながら、コロコロと顔を変える柚琉を見て、桃子は堪えられなくなってきた。
「おっかしいの……」
とうとう声を出して笑ってしまった。

柚琉といると、嬉しくて楽しい。
彼と離れていると、寂しいと思う。
側に、いたいと思う。
恋愛に条件なんて、ないと思った。

(――― 彼は私の心を動かす)

それだけのこと。
そしてそれは、何て稀少な感情なんだろう。

「あっ……」

唐突に、柚琉にキスされた。
いつかの軽くかすったキスとは違い、しっかりと唇に唇が重なったキスだった。
(もう……)
それでも目を閉じてしまう。

「もうー…」
唇が離れ、思わず桃子は言った。
「……こんなとこで…」
自分の通勤している最寄駅でのキスは、さすがに恥ずかしかった。
顔の知れた誰かに見られているかもしれないと思うと、恥ずかしさは更に倍増した。

「それじゃ、桃ちゃんとこ、行こう」
「えっ…?」
「寒いし…ゆっくりできるし」

(できる……って何をよ)
そう思いながらも、桃子は柚琉に肩を抱かれるまま、歩き出した。
寒さと緊張で手の先まで冷たくなっていたのに、そんなことももう分からなくなっていた。
心の中があっという間に満たされて、溢れてくる感情が体を巡り始める。
柚琉が、愛しかった。

 

ラブで抱きしめよう
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