今まで、2ヶ月ぐらいお互いメールも出さない時だってあった。
だけど今回は、『連絡をとらない』ということに大きな意味がある気がする。
(祐介……やっぱり怒ってるのかな…)
そうこうしているうちに、6月が終わってしまった。
私から連絡をする気にもなれないままでいた。
あの朝、私の体中に残っていた祐介の気配。
そして彼の体に残っていた私がつけた幾つもの跡。
何度も思い出そうとしたけれど、私の記憶の中で あの夜のことはやっぱり抜け落ちたままだった。
大学で授業を受けていても、雑貨屋でアルバイトをしていても、電車に乗っていても、いつも頭の片隅にモヤモヤとした雲がかかっているみたいだった。
こうして自宅の部屋で一人になってしまうと、片隅にあったそれは私の心のほとんどを支配してしまう。
今では、謙ちゃんと別れたことよりも遥かに大きな比重で、祐介のことを悩んでいる。
このモヤモヤは、何なんだろう。
これを払拭するには連絡をとった方がいいのかも知れないけれど、なんとなく彼に会うのが怖かった。
祐介と一緒にいると、私の記憶がまた飛んでしまうんじゃないかという不安があった。
部屋にいると、携帯が鳴った。
絶妙のタイミングで祐介からかかってきたのかと思って、私は慌てて携帯を手にとる。
(なんだ……)
祐介とも共通の友人、高校が一緒だった久子からだった。
「もしもーし」
一応明るく電話に出る。
『亜美ー?久しぶりー。何してんのー?』
半年振りの久子の声だった。
「家で飲むからって、こんなに買ってくるもん?」
私の手荷物を見て、呆れた声で久子は言った。
「…ごめん、最近飲んでなくて…つい」
わざわざデパ地下でそこそこのワインを3本買って、一人暮らしをしている久子の家に来た。
久子の部屋は女の子らしくキレイに片付いていて、インテリアは雑貨屋のディスプレイみたい。
バイト先で安く買って、私があげたモノも沢山あった。
「うちにビールもこんなにあるよ」
久子は冷蔵庫を開けて、私に見せる。
「ホントだ」
答えた私は、ちょっと嬉しそうだったと思う。
元来私は酒好きなのだ。
「で、……何よ?」
二人で飲み始めてから早々に、久子は私の様子を見て言った。
「何って?」
壁にピッタリつけて配置された小さなソファーに寄りかかりながら、私は座っていた。
「何かあったんでしょう?亜美?すぐ分かるよ」
久子はコップに私の買ってきたワインを手酌した。
「これ美味しいね、さすがデパ地下」
彼女は手を伸ばして、私のコップにも注いでくれる。
「そうでしょ?良かったぁ」
私は白ワインの入ったコップを手にした。
久子はテーブルに瓶を置くと、足を崩してから私を再度見る。
「って、そうじゃなくって、亜美、何があったのよ」
「絶対誰にも言わないでよ…」
私は大体の経緯をかいつまんで話した。
話しながら、また自己嫌悪に襲われてしまう。
「そうかー……あんたたち仲良かったもんねー…」
いつのまにか1本飲んでしまって、私たちはもう1本ワインを開けた。
久子はお酒が強いのだ。
私は半分食べてたケーキに、また手を出す。
これも私がデパ地下で買ってきたものだ。
飲酒なのにスイーツ。女同志って、これだから、いい。
「………」
「でも、覚えてないうちにやっちゃうってのが、痛いね」
「…そうだよ…」
自分でもホントに痛いと思う。
「祐介も、ガマンできなかったのかなぁ」
呆れたように久子が言った。
私は祐介の首筋についていた多数のキスマークを思い出す。
「……そう思うけど…」
私自身が思っているよりもずっと激しく祐介に迫っているような気がした。
あの朝のいつまでも濡れた感じだって、普通じゃなかった。
(…はあ…)
「私、欲求不満なのかなあー?」
ケーキを食べながら、今度は赤ワインを飲む。
渋い感じと甘さが、絶妙。
「謙ちゃんと最後にエッチしたのっていつよ?」
「ええーー?」
久子の振りに、私はちょっと焦る。
「いつかなぁー、3、4ヶ月ぐらい前…?なんか、あんまり考えたくないよ」
最後の方の謙ちゃんとは、正直気まずかったと思う。
いつかこんな風に別れてしまう予感が常にあって、そして私はそれに対してビクついてた。
「そっか…。だけど亜美、今だって結構飲んでんのに普通じゃん?」
「うん。結構酔っ払ってるけど、意識はちゃんとしてるよ」
そこなんだ。
この前だってその前だって、意識が途切れる前まで私は普通の状態だった。
だからこそ余計に怖くて、自分が信じられない。
今日だって外で飲むのが不安で、こうして久子の家に来たんだ。
「あたしの考えなんだけどさー」
私を見た久子の頬が少し赤い。
二人で1本空けてたし、その前にもちょっと冷蔵庫のビールを飲んでしまってた。
「亜美、深層心理っていうのー?なんか心の奥底でさ、祐介を意識してたんじゃないの?」
「…へ?」
そう言われてみれば、そういう風に思いつかなかったのが不思議だ。
「…わ、分かんない……どうなんだろ…?」
私はしどろもどろに答えた。
「祐介ってさ、客観的に見れば結構カッコイイしさ」
確かに祐介はモテてると思うけど。
「でもー、私はあんまり好きなタイプじゃないんだけど…」
私は即答してしまった。
「あたしもだよーー。顔濃いし、あ、濃いのは眉か?」
久子の言葉に、二人で笑ってしまう。
「なんかさ、祐介のキャラって『彼氏』っていうよりも『いいトモダチ』って感じじゃない?」
久子からそう言われたのは意外だった。
「私も、…祐介は『友達』って思うよ」
本当にそう思ってた。
だから、体を重ねてしまったことは大きな間違いだったと思う。
こんな風に変に意識をして、気まずくなってしまうのは辛い。
「なんか音しない?亜美じゃない?」
「えっ?ホント?」
私は自分のバッグを引き寄せた。奥の方で携帯が光ってる。
「ホントだー、久子、耳がいいね」
手にとって驚いた。
「祐介だ…」
「すっごいタイミング、メール?」
久子も驚いてた。
「ううん、電話…」
私は慌てて携帯を開いた。
急にドキドキしてくる。
酔っ払っているのに、一気に覚めていくのが分かる。
「もしもし…」
『あ、亜美?』
聞きなれている声のはずなのに、なんでこんなに緊張してしまうんだろう。
「うん」
『今、大丈夫?』
「うん……何?」
何、って言い方はなかったかも、って思ったけどもう口に出しちゃってた。
私は時計を見た。
まだ9時を過ぎたところだった。
それなのにこんなに酔っ払ってる私たち。
『今どこにいんの?』
「久子んち。…祐介も来ない?」
私は目で久子に問い掛ける。
久子はウンウンと頷いた。
『……飲んでるだろ、お前』
祐介の怪訝そうな声。
「の、…飲んでるけど……今は大丈夫だよ、全然普通」
彼が警戒する気持ちは分かる。
久子が手を伸ばして、電話を代わるように合図してくる。
私は携帯を渡した。
「祐介ー?久しぶりー!おいでよー」
「なんだよ、出来上がってるじゃんお前ら」
コンビニの袋を持って、カーキ色の迷彩風パンツに白いTシャツを着た祐介が入ってくる。
久々に見たヤツはいい感じで、やっぱりカッコイイかもと思う。
私が酔っ払ってるせいかもしれないけど。
「結構久しぶりだよねー、前にみんなとボーリング行ったぶりじゃない?」
立ち上がった久子が祐介を招き入れた。
私はチラっと彼を見て言う。
「…どーも」
思わず無愛想になってしまった。
だって、何て言っていいのか分からなかった。
この前はありがとう、とかも変だし。
そもそもこの前って言ったって、もうだいぶ前だし。
「ああ……ってお前懲りずにまた飲んでるし」
眉間に皺を寄せて祐介は私を見た。
「そんなに飲んでないよー」
と言ってる私のすぐ横に空いたワインの瓶があった。
テーブルには半分飲み終わってる別のボトルが置いてある。
「………」
祐介はテーブルを挟んで向かい側に座った。
正面にヤツがいるっていう状況が、何だか不思議と照れくさい。
「とりあえず、久々だし!乾杯しよっ」
私たちの間にいる久子が笑顔で彼にグラスを渡す。
「オレ、車だから。これでいい」
自分の持ってきた袋から、祐介はペットボトルを出した。
祐介の事が変に気になって仕方がなかったけれど、私は自分のできる限り何事もなかったように振舞った。
共通の友人の久子がいてくれたおかげで、場はかなり和んでたと思う。
彼が来てから、私はお酒にほとんど手をつけなかった。
既に結構酔っていたけれど、記憶が飛ぶとかそんな程じゃない。
それに話をしているうちにだんだんと酔いは覚めてきた。
ふと時計に目をやると12時近かった。
私の視線に気付いて、祐介も顔を上げた。
「あー、こんな時間?もうオレ帰るわ」
「えぇー、もう帰っちゃうのぉー?」
いい感じに出来上がった久子が、甘ったるい声で言った。
立ち上がりかけて、祐介は私を見る。
「お前どうすんの?帰るなら送ってやるけど」
全然飲んでない彼は、スッキリとした表情をしていた。
「…えーっと」
今日はここに泊まるつもりで来ていた。
だけどさっき祐介がくれた電話……彼が何を言いたかったのかが気になる。
久子もそう思ったのか私を見て、目で 一緒に行くように急かした。
「……じゃあ、送ってもらおうかな」
私も立ち上がった。
「ごめん、散らかしっ放しで」
玄関口で私は久子に言った。
「ううん、いいっていいって…またゆっくり来てよ」
「オレこそ急に来て悪いな」
ドアに手をかけながら祐介は振り返った。
「全然、歓迎だよ。…車、気をつけてね」
久子の声を聞きながら、私と祐介は一歩外に出た。
「祐介、送り狼になるなよ!」
酔っ払った久子が結構大きい声で言った。
「ならねーよ」
そう言った祐介はマジ顔だった。
「……じゃあねぇー」
久子は静かにドアを閉めた。
「………」
「………」
路駐してる祐介の車に向かう間、私たちは無言だった。
初夏の夜は蒸し暑かった。
「じゃあ、…お邪魔しまーす」
私は助手席に座った。
久しぶりのこの車は相変わらずタバコ臭い。
祐介は一息ついて、言った。
「お前、久子に言っただろ?」
「……バレてた?」
「…分かるよ、あいつの態度で」
はぁとため息をつきながら、祐介はキーを回した。
二人きりになるとドキドキする。
しばらく会ってなかったから、変に緊張していた。
―― 何か喋って欲しいのに、祐介は何も言わない。
―― 何か話したいのに、私は何も思い浮かばない。
指先が冷たくなる。
「…これって、ノエルギャラガー?」
沈黙を破って、私は言った。
「リアムだろ」
祐介は薄く笑った。
私はいつもどちらが歌っているのか区別がつかない。
固い空気がちょっとだけ和らいで、私は少しほっとする。
車内に小さく流れる音楽。
we'd go on forever till the end of time , you could be my best friend…
そんなフレーズが妙に耳についた。
「………」
変わらずお互い黙ったままだった。
この時間の道路は空いていて、あっという間に自宅へと近付いてしまう。
「あのさ、…電話くれたじゃん」
仕方がないから私から切り出した。
「ああ」
「何か、……言いたいことがあったのかなって思って…気になって」
「………うん」
頷いた祐介は真直ぐ前を見たままハンドルを握っている。
「すぐ家に着いちゃいそうだし……ちょっと停めてもいいか?」
「うん」
閉店してるレストランの駐車場に祐介は車を停めた。
店は通りに面しているのに、停めた場所は道路からは見えなかった。
もう深夜で、人通りもない。
街は静かだった。
「…………」
祐介はしばらく黙ったままだった。
何かを考えてるみたいだったから、私は彼の言葉を待った。
(なんでこんなにドキドキしてしてるんだろ…)
私はさっきからすごく緊張してた。
今まで、祐介は私をリラックスさせてくれる存在だったはずなのに。
半袖のシャツから出る彼の腕の感じとか、…私は彼を完全に異性として意識してた。
こんな夜中に、私は『男』と二人きりなんだと改めて思う。
今までそう感じなかった方がむしろ不思議なくらいだ。
(どうして……)
理性とは別のところで…強いて言うなら体の奥の方、そんな場所が私の動悸を激しくさせる。
“……触りたい”
考えるとかじゃなくて、感覚が、…私の体がそう思っていた。
酔ってた夜に、祐介に迫ってしまったのがなんとなく分かった。
今だって、理性がなかったらこの体はきっとそうしているに違いなかった。
「亜美」
「えっ」
唐突に声をかけられて、私はビクンとなった。
全部が過敏で、指先まで心臓みたいになってた。
自分でもどうしてこんなになってるのか分からない。
「オレ、会いたかったよ」
(…えっ…)
「……あ、…私も、…会いたかったよ?」
思わずそう答えてしまう。
会いたかったのは本当だった。
だけど、祐介の方からそんな事を言われるなんて意外だった。
(ああ……)
ドキドキが、どんどん激しくなってくる。
「顔を見て………、ハッキリ思った」
「…………」
体中がドキドキで、もう爆発してしまいそう。すごい、ヤバいかも。
祐介は、手の届くぐらい私のすぐそばにいる。
「…オレ、もう亜美とは『友達』のままではいられない」
祐介の一言で、一瞬心臓が止まるかと思った。
大袈裟じゃなくて、本当にそれぐらいビックリした。
(友達のままでいられないって……)
祐介の言葉は非現実的で、私はピンとこない。
「祐介………」
(うそ……)
「………」
沈黙が次第に自分を現実へと返していく。
「分かるよな?」
「………分かってる」
私は頷いた。だけど『分かってる』=『YES』じゃない。
「あ、私は……私……」
「…………」
蒸し暑い車内は狭くて、息苦しかった。
祐介が私を見ている。
私は視線を感じながら、逃げ出したくなるようなこのドキドキを持て余してしまう。
祐介の胸に、飛び込めれば、いいのに……
「私は……」
ドキドキする。背中が寒いぐらい。
「私は、祐介と友達でいたいよ」
数秒、時間が止まった気がした。
空気が固まって、やがてそれは体へと重みを増して圧し掛かる。
「……そっか」
その時の祐介の声は、今まで聞いたこともないような響きだった。
悲しい?寂しい?優しい?……うまく表現できないけれど、彼の気持ちを知るには充分すぎた。
車が通りへと戻って、私の家へと真直ぐに向かう。
私の体に巡っていたドキドキは弾けてしまった気がした。
今は抜け殻みたいに、この空気の圧を押し返せないでいる。
「じゃあな」
「うん、送ってくれてありがと」
家の前で、私は助手席から降りてドアを閉めた。
「……ま、またねっ!」
車はすぐに走り出してしまう。
私のその一言が、祐介に聞こえたのかどうかは分からない。
さっきから私は彼の顔が見られなかったけれど、祐介もこっちを見ていなかった。
彼の車はあっという間に夜に飲み込まれてしまった。
すごくすごくすごく、間違った気がした。
後で、もっと他に言い方がなかったんだろうかと思ったけれど、もう遅かった。
その夜以来、今までよりもずっと祐介の存在は私の中で大きくなってしまった。
(何してるんだろう……祐介…)
大学でのつまらない授業中でも、いつも祐介の事を考えてしまう。
机に置いた携帯を見たって、彼から連絡が入ってくるわけがなかった。
(もう、会えないのかな……)
こんな風に会えなくなるなんて。
元はといえば自分のせいだ。
大事な友達に、あんな事をしちゃったのは私だ。
(会えないのかな…)
前を向いた目に入る白板の文字が滲みかける。
(やばい泣きそう…)
アルバイトばかりして過ごした。
その一瞬は気が紛れても、家に帰ると、来ないメッセージをいつも待ってる自分がいた。
祐介のことばかり考えてる。
考えるだけで、泣きそうになる。
(会いたいのに……)
祐介が言ってくれた告白を、私は突き返した。
連絡が来なくなって当然だった。
付き合いたくないけど友達としては会いたいなんて、都合のいい事、もう彼には言えない。
それでも祐介に会いたくて、
考えれば考えるほど会いたくてたまらなくなる。
手放してその大きさに愕然とする。
すごく大事な人だったのに。
辛い事とかムカつく事とか話を聞いてくれて、楽しくて落ち着いた気持ちにいつもさせてくれた。
言いたい事を言うのが当たり前になっていて、あんな風に平気で言ってしまった。
あの夜隣にいた祐介に、触りたくてたまらなかった自分。
それは単に欲情だと思っていた。
―― 私ってバカだ。
会いたくて会いたくて、触りたくて側にいたくて、今だって声が聞きたくて。
朝起きてから眠るまで祐介のことばかり考えてる。
………好きなんだ……
夏も終わってしまう。
自分の気持ちにやっと気が付いた時は、遅すぎた。