ぼくらのキスは眼鏡があたる

10 恋

   

私は杉下くんが少し怖くなった。


おととい、初めて杉下くんとキスした。
彼とキスしたのが初めてというか、私はキスそのものが初めてだった。

昨日…杉下くんの家で。
まさかあんなことになるとは思ってなかった。
だって、『付き合おう』って言って…その次の日だったし。
何となく、私のイメージの中ではもっとデートとかして…それで、そういう事ってもっともっとだいぶ先にあるものだと思っていたのに。

……杉下くんにあんなことされた。

彼にキスされると、私はぼぅっとしてしまう。
それだけじゃなくって、体中が心臓になったみたいにバクバクって音をたてながら血が巡っていく。
逃げ出したいような、…それでいてもっと側に来て欲しいような、…すごく不思議な感じで…私はどうしていいのか分からなくなる。
昨日も杉下くんにキスされて、気がついたら彼が私の体に触れていた。
いつも優しくって、私の前では気を使いすぎてるぐらいの彼が…男なんだなって実感した。
なんだか、彼が…急に怖い。

杉下くんにあっという間にあんなことされて……
私はドキドキしていた。
キスよりも、ずっと。
杉下くんの体重を感じたとき、私は手が震えてしまった。
『男の子』の彼が、私の唇に何度もキスしてきた。
杉下くんに触られた、あんなところが……

私は感じていたんだと思う。
気持ちいいって、きっとああいう事なんだって思った。
ドキドキが、自分の限界を超えて…私はその場から逃げ出したくて仕方がなかった。
とっても悪いことをしている、って思うのに、…杉下くんに身を任せてしまいたくなる自分がいた。
私をそんな風にしてしまう杉下くんが怖い。
ビクビクなるような感じが全身に広がって、そしてその部分にまた集まっていく。
全ての感じがそこへ集まろうとした時……私はその先を知るのが怖かった。
あんな感じになるなんて……

「はぁ……」


ここは教室なのに、思い出すだけでまた体がどうにかなってしまいそう。
体の奥の方…お腹から背中に突き抜けるみたいに、何だか今でも彼のことを考えるだけでムズムズしてくるような感じになる。
(ヤだ……)
こんな自分はイヤ。

右を見ると、杉下くんの机がある。
彼は朝ギリギリに来ることが多い。
「はぁ……」
学校に来ると、杉下くんに顔を合わせることになる。
…会いたい、んだけど…。
会えるのは嬉しいんだけど……。
昨日の帰り、送ってもらって…外で改めて見る杉下くんはやっぱり魅力的な男の子で。
そんな彼と私が付き合ってるっていうのは今でも信じられなかった。
付き合ってるのがまだ信じられないぐらいなのに、彼が私のことを好きって思ってくれて、そしてキス…したりそういうことされちゃったりっていう事も、全然ピンとこなかった。
「はぁ…」
私はまたため息をついた。
思っていることが複雑すぎて、…というか、何だか毎日夢を見ているような感じで、私の気持ちは現状に全然付いてきてなかった。
「おはよっ」
顔を上げると、杉下くんが自分のイスを引いて座ろうとしていた。
時計を見ると、やっぱりギリギリだった。

「おはよう……」
私は答えた。
杉下くんは、気まずそうにしていた。
そんな彼を見ると、やっぱり昨日のことは現実にあったんだなぁって思う。
彼は席について、イスを背中で押して浅く座った。
「……昨日はホントにごめん」
前を見たまま小さな声で杉下くんは言った。
「ううん……」
私も小さな声で返す。

「森川さん」

杉下くんに急に体ごと振り向かれて、私は一瞬ひるむ。
「…………」
そんな私の態度を見て、杉下くんはガッカリしたみたいだった。
「………はぁ…」
ため息をつくと何も言わずに、彼はまた前を向いてしまった。
私は何か話し掛けようかと思ったけど、会話の糸口がつかめないまま、先生が教室に入って来てしまう。

先日のテストの結果や、どうでもいい話題が私の頭を通り過ぎていく。
教室は暑かった。
私は杉下くんが気になって仕方がない。
1学期も明日で終わりで、もう夏休みに入る。
夏休みは杉下くんに会えるのかな…とか、考える。
こんなにも私の頭の中を一杯にしている彼が、…今も私のすぐ近くに座ってる。
「………」
そんなことを思うと、シャーペンを持つ手が震えてきそうだった。
昨日された沢山のキスとか、杉下くんの色っぽい目つきとか、……思い出すと恥ずかしくて死にそう。
(やっぱり、怖い……)
自分が変わってしまいそうな気がする。

自分のためだけにあった毎日が、彼を中心に回り始めているのを感じる。

そして私はその流れを止めることができない。
全部、彼のせいで。
杉下くんに触れられると、キスされると、…その流れはどんどん大きくなってしまう。
(どうしよう……)
性的な関係になってしまうのも、怖かった。
私はどうなってしまうんだろう。
昨日の昨日まで、そんなことは自分には全く無関係なものだと思っていたのに。
(分からないよ…)
杉下くんに、『男』を感じたように……私は自分の中の『女』も垣間見てしまった。
自分が自分じゃないみたい。
そういう風になるのは怖い。それなのに、身を任せてしまいたい自分もいた。
私はそんな自分を直視できなかった。

杉下くんは、怒ってないだろうか。
私が拒んだことに。泣いてしまったことに。
私が泣いているのを見て、杉下くんはすごく困っていた。
きっと……彼なら今まで女の子とそういうこと、いっぱいあったんだろうなって思う。
私みたいな子、…杉下くんにとってはつまらないかもしれない。
(全然、自信ないや…私…)
もしかしたら杉下くんにとっての、『大勢の女の子』の一人に私も加わってしまうのかもしれない。
漠然とそれに嫌悪を感じる気持ち、…やきもちを妬いている自分。
悲しくなる気持ち、ドキドキする気持ち…、色んな気持ちが自分の中で巡ってどんどん混乱してくる。


「なんか、あったの?杉下くんと」
休み時間、千草が私に言った。
「え……なんで?」
私はビックリして言った。そんなに態度に出ていたんだろうか。
「なんかー、杉下くんの態度が、ヘンじゃない?」
(あぁ、そっちか…)
千草が見ても変に思えるぐらい、杉下くんはぎこちなくよそよそしかった。
いつも明るい彼だから、余計にそんな風だと目立ってしまうんだろう。
「…変だよね……」
私は言った。
一瞬千草に相談しようかと思った。
千草は彼とどうなんだろう。
野上くんはすごく真面目そうだったし、千草だって付き合ってまだそんなに経ってない。
(もう、エッチとかしちゃってるのかな…)
こんな風に考える自分が信じられなかった。
今までだったら、「まさかしてないだろう」って思ってたと思う。
だけど、『付き合う』って……もしかしたらそういう事避けて通れないのかも、って…今は実感として思う。
「千草……」
「なに?」
明るい顔で私を見る千草。
千草の表情以上に明るい教室で、数分の休み時間に話すことじゃないなって思った。
「最近、あんまり遊んでないね」
私は笑って言った。
千草が彼氏ができてから、一緒に帰る機会はほとんどなくなった。
それは千草の都合でもあったけれど、私が杉下くんと一緒に帰っているっていうのもあった。
「夏休み、時々遊ぼうよ」
窓際の柵に手をかけて、私は続けて言った。
日陰の風は気持ちが良かった。
「うん、……雛乃こそ、デートで忙しかったりするんじゃない?」
千草のその言葉に、私はちょっと困ってしまった。

休み時間は終わりそうだった。
私は自分の席を見た。
隣の杉下くんはもう席についていた。
後ろ姿も何となくいつもよりも元気がなかった。
「………」
何か喋りたいのに、朝から私は全然彼に話し掛けられなかった。
やっぱり何となく気まずかった。
(もしかして、…怒らせちゃったのかな…)
「森川」
「あ…末永くん」
席に向かおうとしたときに、末永くんに声をかけられた。
「この前は、ごめんな。せっかくデート中だったのに」
そう言って末永くんは頭を掻いた。
彼は背が高くて、私は思い切り見上げる感じになる。
「ううん。末永くんが何もなくて、本当に良かった」
「…なんか、オレのせいで森川にまで迷惑かけてホントごめんな」
末永くんがいつもの彼らしくなく、神妙に言った。
彼の視線の先をたどると、杉下くんがいた。
「迷惑なんて…。ねえ、末永くん」
「えっ、何?」
私が話し掛けたから、末永くんはちょっと驚いたみたいだった。
「末永くんって、いい友だちを持ってるね」
私は末永くんに笑った。
彼も笑顔になる。
「ああ……」

席に向かう私の肩を、末永くんは軽く叩いた。
「ホント、よろしく頼むぜ、あいつ…軽く天然だから」
そう言って私を見てもっと笑った。
ちょっと怖い感じのする末永くんの笑顔の威力って、すごいなって思った。
私は何となく、励まされた気がした。



学校は午前で終わる。
「森川さん」
「…ん?」
みんなが一斉に席を立つ中、私たちは座ったままだった。
「一緒に……帰れる?」
杉下くんがちょっとオドオドして私に言ってきた。
そんな彼の様子が、なんだか申し訳なくなってくる。

もしかしたら、…彼を傷つけてしまったのかもしれない。

「うん、帰ろ……」
私は静かに言って、できる限り微笑んだつもりだ。
杉下くんはちょっとほっとしたみたいで、軽く笑って立ち上がった。
(なんか…きっといい人なんだろうなぁ…)
ここ数日間で、私は杉下くんに対して何度もそう思っていた。
昨日のことだって、…私を困らせようとしてそうしたわけじゃないって事、本当は分かってる。
ただ、私が彼についていけなかっただけだ。

廊下に出ると、好奇の目が私に刺さる。
杉下くんとこうして帰るのは、もう何回目か分からないぐらいなのに、…やっぱり私たちはじろじろ見られていた。
そんな視線は、私には結構辛かった。
露骨にイヤな顔をする女子もいた。
みんなに受け入れられない関係、…それはヒシヒシと感じる。
杉下くんは精一杯私に気を使ってくれてるっていうのが分かってた。
意外にも誠実そうな彼のことを、私は信じたいと思っていた。

まわり道をして、私たちは帰る。
人通りの少ない道を歩いた方が人目を避けられるから、私も落ち着いた。
道幅の狭い住宅街。
いつも杉下くんは車道側を歩いてくれる。

「………」

相変わらず杉下くんは喋らない。
(やっぱり、傷つけたのかも……)
もしかしたら杉下くんって、結構気にしやすい人なのかもって最近感じてる。
何だか私の方が彼にすごく悪いことをしてしまったような気がしてきた。
…私は昨日、拒んでしまった。
拒むってことは、嫌がるってことで…。
私の態度は……やっぱりきっと杉下くんを傷つけたんだろう。
「………」
(あ…)
杉下くんは私の手を握ってくる。
ホントは学校帰りの道で、こんな風にするのは恥ずかしくてちょっとイヤだった。
だけど、今、とてもそれを拒める雰囲気じゃない。
…それに…

私はこの手のせいで、すっごくドキドキしてる。

体温を感じてしまうと、イヤでも昨日のことを思い出してしまう。
できるだけ考えないようにしていたのに、…昨日の感じが体に甦ってくる。
ドキドキして…そして…

私にかかる杉下くんの息。
自分から漏れてしまう声。


歩きながら、体中がドキドキしてくる。
これだけのことで、こんななのに……。
もしもそんな風になる時がくるとしたら、やっぱりそれはすごく怖い。

今はまだ……。


駅に近付くと、杉下くんは手を離した。
「今日は、送ってくから」
「…うん」
昨日からずっと気まずいままだ。
電車を待つ駅のホームでも、生徒の視線を感じる。
女の子は杉下くんを見て、そして私を見る。
(はぁ……)
温かい目で見守る、というのとは真逆にある負の気配。
この視線にも慣れつつあった。
杉下くんがなんとなくピリピリしてるのに周りの状態もこんなで、私は胃が痛くなりそうだった。

いつも明るく接してくれる彼につられて、私も何となく笑顔になっていたと思う。
だけど今日は電車の時間も長く感じた。

やっと駅に着いて、車内に散らばっていた視線から逃れられた。
私は少しほっとする。
歩き出した杉下くんは、すぐに私の手を取る。
近所の目もあるし…家の近くではこうして二人で歩くのも実は結構恥ずかしかった。
それでも、今はこうしていたいと思った。
全然言葉が浮かばない分、せめて手を繋いでいたかった。


「昨日は、ホントにごめんな……」

歩きながら、杉下くんが切り出した。
今日はあんまり私を見ない。
「ううん……」
私もそれ以上の言葉が思いつかなくて、ただ首を振った。

「私こそ、…ごめんね」

「えっ…」
杉下くんは驚いたみたいだった。
「なんで?なんで森川さんが謝るの?…ボクが悪いのに」
その言葉に私は顔を上げた。
困った様子の彼もなんだかカワイイ感じがして……私はまたドキドキしてしまう。
あの日キスしてから、私は彼を見ると自分が自分じゃなくなってしまうような気がしてる。
「……だって……なんていうか……」
『やらせてあげられなくてごめん』なんていう事、口に出せるワケがなかった。
「なんか……泣いたりして……困らせたし…」
何て言っても、この微妙な気持ちを言葉にするのは無理そうだった。
私は困った。

「ボクが……」
私の手を握る杉下くんの手に力が入る。
「……ちょっと……ガマン弱かったというか……その…」
「…杉下くん……」
「昨日のボクは…森川さんの気持ちとか、…全然考えてなかった気がする…」
「………」
杉下くんの真面目な様子に、私はなんだかジーンとしてくる。

「だから、ごめん」

私たちはいつの間にかゆっくり歩いていた。
もう立ち止まってしまいそうなぐらいに。
「そんな、…もう、…謝らないで」
どうしてだろう。
私は杉下くんを見ていると、時々涙が出そうになることがあった。
自分の体の奥、喉の奥ぐらいのところから…、熱い塊が私の言葉を詰まらせてしまう。
それは一瞬首筋の方まで巡って、その後私の血を全身へ全力で送り出す。

ドキドキしてた。

(あたし……)
杉下くんはだんだんと私の気持ちに入ってきていて、いつの間にか真ん中にいた。

自分の心の中心に、彼の存在を感じる。
ドキドキしてくる。
彼を見ているだけで。
触れている手なんて、もう熱くてどうにかなりそうだった。
体にこみ上げてくる熱を、止めることができない。
(どうしよ……)


(……杉下くんのこと、すごく好きみたい…)


体中でそれを感じてしまうと、私はこうしているのも恥ずかしくなってくる。
隣に彼がいるだけで、めまいがして倒れてしまいそうだ。
「森川さん」
「は、…はいっ?」
杉下くんに真っ直ぐ見つめられてビクっとして、私の声は軽く裏返る。
逆光で光を背負う彼は、体中光りに縁取られてた。
私は眩しくて目を細めてしまう。
杉下くんの動きに、一瞬、キスされるかと思った。


「大好きだからね……」



そう言って彼は私のことを抱きしめた。
本当に目眩がしてくる。
こんな気持ちでこんな体で、私はよく立っていられたと思う。

 

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