昨晩のウソみたいなキス。
今朝、私は実感の伴わないままいつもどおりに家を出た。
授業中もぼんやりと敦志のことばかり考える。
この同じフロアの先、違う教室で敦志も授業を受けているのかと思うと、それだけでドキドキしてくる。
(キスされた……)
超意外だったけど、敦志のキスは下手じゃなかった。
はずかしいけど、…うっとりしてしまった。
(はあ……)
昨日の昼とは、全く違う種類のため息が出る。
(敦志のこと、…好きだなぁ…)
改めて自分の気持ちを知ってしまった気がする。
結局昨日は何も話ができなかった。
だけど宇野と別れたってことは事実で、そして私とキスしたってことも事実だ。
(付き合う、って思っていいんだよね……)
言葉で何も約束していない、っていうぼんやりとした不安はあった。
それでも敦志が何か情熱的な台詞を言うタイプだとも思えないし、それはそれでこんな感じでも私は満足していた。
昨晩の敦志の眼差しとか、気配とか、感触とか、思い出すとたまらない気持ちになってくる。
(敦志は今日も部活だよね…)
休み時間に、私は敦志にメールを送った。
『今日、部活の後ちょっとうちに寄らない?』
敦志の部活が終わって帰ってくるのと、うちの親が仕事から帰ってくる間に、ちょっとした時間がある。
そのちょっとした間だけでも敦志と会いたかった。
「良かったね、果凛」
亜由美がお弁当を広げながら私に言った。
「…うん、…良かった」
私は素直に頷いた。
余計なことを言ったら妙に照れてしまいそうだったから。
「何よ果凛、彼氏できたの?」
イスを持ってきながら、玲衣が私たちの机に近付いてくる。
「うん…まあ」
私はなんとなく曖昧に頷く。
「あの幼馴染君でしょ?」
玲衣が真直ぐ私を見て言う。
彼女の態度はいつも落ち着いていて、私はそんな玲衣にちょっと憧れてる。
「そう」
敦志が『幼馴染君』って呼ばれてるのが何だかおかしくて私は笑ってしまった。
コンビニの袋をガサガサいわせて、玲衣は買ってきたパンを取り出す。
「そうかー、もう海都のことはすっかりいいわけね?」
「…ああ、もう忘れてたよ…」
ホントに忘れてた。
夏休みの前、あのキレイな顔をした杉下海都と、私はすごく付き合いたかった。
雰囲気的に、私と海都って合うんじゃないかと真剣に思っていた。
あくまで一方的なものだったけれど。
(忘れてた……)
少し前に自分の中にあった淡い恋心が、今ではすっかり消えてしまっている。
ホントに最近のことなのに。
(………)
いつか敦志へのこの気持ちも、無くしてしまう時が来るのかもしれないと…
敦志の中で、『宇野』の存在が変化してしまったように。
海都のことを思い出して、そんなことを考えてしまった。
(そんなこと…)
今は考えたくなかった。
第一まだ始まってもいないのに。
教室の窓から見る空は高くて、眩しいのに日差しの強さは確実に秋のものになっていた。
敦志に送ってもらっていた暑い日のことを思い出す。
「あーあ、あたしだけだよ、彼氏いないの」
亜由美が残念そうに言った。
玲衣がパンが入ってた袋をキレイにたたみながらそれに答える。
「バイト先はどうなの?」
「ああ、それがね!…結構よさげな子がいてさ!」
私は敦志のことを考えながら、二人のやりとりをぼんやりと聞いてた。
「……」
ふと手元を見ると、携帯に敦志からメールが返ってきていた。
『分かった、また電話する』――
私は着替えてちょっと化粧したりして、敦志の電話をリビングでテレビを見ながら待っていた。
さすがに日はどんどん短くなっていて、5時を回る頃には暗くなってきた。
(『果凛……』)
敦志の声。
どうしてだろう。
私は敦志に名前を呼ばれると、すごく嬉しくなって、そしてドキドキしてくる。
小さい頃から敦志は私のことを『果凛』と読んでいた。
でもその時とは明らかに違う響き。
私が怪我をするまで、敦志とは会話さえしない仲だった。
何年ぶりに名前を呼ばれたんだろう。
(あーあ…)
携帯電話を握り締めながら、私は敦志の電話を待って時間を持て余す。
待ち受け画面でも変えようかと、開いていじっていると電話が鳴った。
手の中で携帯が鳴ると、結構焦る。
「あっ、ぁあっ、…敦志…?」
『……何慌ててんだよ』
相変わらずの素っ気無い声が携帯の向こうから聞こえる。
「あ、慌ててないけど……今どこ?」
『お前んちの前』
私は慌てて玄関のドアを開けた。
「…っす」
敦志はそこにいて、通学するだけなのにやけに荷物が入ってそうなバッグを持って真直ぐ立ってた。
前髪が伸びてて、眼鏡に少しかかってる。
「お疲れ…入ってよ」
私は昨晩のことを思い出して、敦志を真直ぐ見ないまま背を向けた。
何度目かの我が家のリビング。
いつも座ってた場所に敦志は腰をおろす。
とりあえず飲み物を出して、私は自分がどこに座ろうか一瞬迷う。
これまでは斜め向かいに座ってた。
(………)
思い切って私は敦志の隣に座った。
「………」
敦志が一瞬体を引く。
隣に座ってまずかったかなと思いながら、でも付き合ってるんならいいかと無理に納得してみる。
「部活、大変そうだね」
私は自分の飲み物を手にとって、当り障りのないところから会話に入った。
「好きでやってることだから」
敦志もカップに手を伸ばす。
その一連の動きで、彼は少し私と距離を置いて座りなおした。
そんな微妙な動作でさえ、私の心は乱されてしまう。
「毎日だもんね」
「それも朝も放課後も」
敦志が私の後をつなげて言った。
私はちょっと笑って、少し緊張がほぐれてくる。
敦志と何気ない話題を続けた後、会話がふと途切れた。
「……」
「………」
ドキドキしてくる。
隣に敦志がいるから、隣に彼がいるのに、…二人の間には微妙に距離がある。
「………」
私は思い切って、敦志へ手を伸ばしてみる。
「……」
敦志の体が一瞬固まったのが分かる。
それでも私は彼の手の中へ、自分の左手を入れた。
「………」
敦志の手は温かかった。
手が触れ合うと、敦志もやんわりと私の手を握ってくれた。
…良かった。
「手…大きいね、…あっちゃん」
自分で口に出してから、びっくりしてしまう。
「懐かしい呼び方だな」
敦志も驚いた様子で言った。
「あ…なんか無意識に言ってた」
私はなんだか恥ずかしくなってきて、焦ってくる。
「………」
それ以上に敦志が突っ込んでこないから、余計に間が悪い。
(『あっちゃん』…なんて…)
呼んだのって、何年ぶりなんだろう。
子どもの頃の習慣が、無意識のうちに出てくるなんて。
「果凛の手は冷たいな」
「……そうかな」
私は敦志と二人きりでいることに緊張してた。
それで手まで冷たくなってたのかも知れない。
敦志は私の手をちょっと引き寄せて、両手で私の左手を包んでくれた。
「………」
そんな行動が私の抱いている敦志のイメージっぽくなくて、予想以上に嬉しくなってしまった。
敦志が、近くにいる。
私の手を握っているだけなのに、…何だか彼からすごく優しい感覚が伝わってくる。
「………果凛」
「ん?」
顔を上げると、敦志の唇が重なってきた。
「…………」
敦志のキスは、彼のイメージよりもずっと優しい。
まだ握られてる手が、だんだんと熱くなってくる。
「…敦志」
また唇が合わさる。
敦志の舌が私の唇に触る。
私が薄く口を開くと、敦志の舌は少しだけ私の舌に触れた。
ドキドキが、体中に回る。
「はあ……」
唇を離して、私は敦志の肩に自分のおでこをつけた。
何だかすごく恥ずかしくて、まともに顔が見られなかった。
「ねえ…」
「うん?」
顔の見えない敦志の声は、いつもよりずっと優しい気がする。
「明日も会える?」
私は言った。
「ああ………うん」
敦志がゆっくりと頷く。
(はあ……)
私は心の中で大きく深呼吸した。
「あさっても、しあさっても…?」
思わず敦志を握る私の手に力が入る。
私はいつの間にか敦志の胸に顔をくっつけてた。
「……………」
敦志のドキドキも、伝わってしまうぐらいの場所に私はいた。
「毎日会いたいんだよ…」
本当にそう思って、思わず私は言葉に出していた。
「…………」
敦志は黙ったまま、私の背中に腕を回してくれた。
その腕はやっぱり優しかった。