(みゆきくんと…)
家族との久しぶりの食事の間も、茉莉の心はそこにあらずだった。
「どうしたの?茉莉、疲れてる?」
「あ、…うん。ちょっと疲れてるのかも…。お風呂入って、もう寝るね…」
食事も早々に切り上げ、入浴を済ませるとパジャマ代わりにしているフリースに着替え、すぐにベッドに潜り込む。
(みゆきくん……)
合宿では色々な事があった。体力的にはしんどかったが、得られるものが多かった。やはり高校の練習方法とは違っていた。大学生と自分のレベルの違いを感じる点もあったが、自分ならできるという手応えも一方で感じた。
合宿が終わって、現地で解散するまで、茉莉はソフトボールの事ばかり考えていた。
しかし今は、一瞬にして頭の中は深雪の事ばかりだ。
(キス……しちゃった…)
告白された時に初めてしたキスとは違い、先程のキスは実感を伴うものだった。
(やだ…)
思い出すだけで、体中が熱くなってくる。
恥ずかしくてたまらないのに、ドキドキして、何度も思い出してしまう。
自分の事を好きだと言ってくれた時の、深雪の表情。
頬に触れる冷たい手。
優しい唇。
(嘘みたい…私…みゆきくんと……)
茉莉は100メートルをダッシュした時よりもずっと、動悸が激しくなっていた。
思わずベッドの中でモソモソ動いてしまう。
(どうしよう…、どうしたらいいの…)
落ち着こうと深呼吸しても、鼓動は収まらない。
(寝られないよ〜……)
明日、深雪と会う約束をしていた。
(付き合う事に、なるのかな…)
お互い好きで、そして深雪のあんな切ない顔を見たら、これ以上自分自身の気持ちから目をそむけるのは、深雪にとっても自分にとっても良くない気がした。
(付き合うって…、どういう事になるんだろう…)
茉莉の頭の中で、心配事や深雪の事、自分自身の事が、グルグル回った。それでも最後には、今日の深雪のキスを思い出してしまう。
(ああ、もうどうしよう!…それに明日何着て行こう?!)
早い時間にベッドに入ったのに、茉莉が眠りについた時には既に日付が変わっていた。
昨晩の雪は降り積もらず、その日は、快晴だった。
バイトを午前中に上げてもらい、
深雪昼過ぎに駅で茉莉と待ち合わせをした。
(約束して出掛けるの、初めてだよな…)
振られる前まで、深雪は何度か茉莉を休みの日に誘っていた。
しかし茉莉の都合が合わなくて、結局会えなかった。
そして告白して玉砕した後には、何となく誘いづらくなってしまい、茉莉と会う約束をする事はなかった。
(来てくれるかな…)
深雪は浮かれていたが、茉莉が待ち合わせの場所に来るまで、今日のデートに全く実感が無かった。
視線の先に、背の高いショートカットの女子が目に入る。
茉莉だった。
深雪は10分前に来ていたが、茉莉も5分前に現れた。
カーキのコートに、白いGパンにスニーカー。
茉莉の意外に大人っぽいスタイルに、深雪は少し驚いた。
「あっ…、もしかして待った?」
「待ってないよ。茉莉こそ、待ち合わせにはまだ早いけど」
「だって5分前集合しないと」
「はは」
茉莉の運動部っぽい発言に、深雪は笑ってしまう。
「今日、あったかくて良かった」
深雪はフードにファーの付いた濃いグレーのジャンバーの、前を開けていた。
「うん、晴れてて良かった」
外を見ながら、茉莉も笑顔になる。いつも通りの深雪の雰囲気に、茉莉はホっとした。
(でも、これってデートだよね……これって…)
茉莉の頭の中で、昨日の続きが始まってしまいそうになり、邪念を払うように頭をブルっと振った。
「行こ」
深雪が、茉莉の手を取る。
(あ…)
彼の冷たい手が触れて、茉莉は一気にこれがデートだと実感する。
「ごめん、オレ、手冷たいでしょ」
「ううん、…全然大丈夫」
そう返しながら、茉莉はドキドキしてしまう。
(みゆきくんの手……)
当たり前のように手を取られ、茉莉は深雪の1歩後ろをついていく。
これまで誰とも付き合った事がなかったから、こんな風に誰かと歩くのは初めてだ。
駅を降りてすぐ見える海は晴れた日の光を放ち、開けたビルの間を明るく照らしているようだった。
年末の空気は澄み、空がどこまでも青い。
(こんなところに来たの、小学生の時家族と来た以来かも…)
向こうに観覧車が見えた。
「あ、観覧車」
思わず茉莉はつぶやいた。
「乗りたい?ここ、乗りたい乗り物だけチケット買って乗れるよ」
「えっと…」
茉莉は乗りたい気持ちもあったが、いきなり2人きりになる感じに、迷う。
「乗ってもいいけど、オレ、乗った瞬間から降りるまでずっとキスしちゃうけどいいの?」
「ええっ」
深雪の言葉に茉莉は真っ赤になってしまう。
昨日のキスまで鮮明に蘇ってくる。
「はははっ」
そんな茉莉の姿を見て、楽しそうに深雪は笑った。
「もう!み、みゆきくん、…からかってるでしょう!」
「まつりは可愛いなあ…」
そう言って愛しくてたまらないという表情で、深雪は茉莉を見た。
茉莉はそんな顔をする深雪を見て、ますます赤くなってしまう。
(みゆきくんって、こんな風に笑うんだ…)
何度も2人で話したりしているのに、こんな表情の深雪を、茉莉は初めて見た。
(なんか……どうしよう…)
深雪と繋いでいる手が汗ばんでくる。
ドキドキし過ぎて、彼についていくのが精一杯だった。
しばらく歩いて、2人は海沿いまで来た。
遠くで大道芸人が何かショーをしているのが見える。
公園は賑わっていたが、不思議と静かで平和な空気感がある。
「うわ、あそこ!クラゲがかたまってる」
茉莉は少し身を乗り出して、波打ち際を指さす。
風の無い日で、海は凪いでいた。
「ホントだ…。寒くなってもまだいるんだな。あの辺、あったかいのかもな」
深雪も茉莉に並んで、手摺に寄った。
側に寄られて、茉莉はドキっとする。
「みゆきくん…」
「ん?」
深雪は自然な動きで、茉莉の髪を触った。
茉莉の前髪を分けると、そのまま深雪はおでこにキスした。
(ええ…)
そんな風にされる事にあまりにも慣れていなくて、茉莉は固まってしまう。
そんな彼女にお構いなしに、深雪はそのまま左手を茉莉の肩に回す。
茉莉は抱き寄せられ、手摺を掴んでいた右手の上に、深雪の右手が重なる。
(ちょっとこういうのって…)
ラブラブなカップルみたい、と茉莉は思う。
まさか自分がそんな状況になるなんて、今まで一度も想像した事がなかった。
深雪への想いは確かにあったが、それは茉莉の中でやんわりと丸まっていたもので、こんな風に生身の深雪の感触からはかけ離れたものだった。
「な、…なんか、…すごく恥ずかしいんですけど…」
茉莉は言ってしまう。
「うん。慣れて」
深雪は茉莉の顔を見て、ニコっと笑う。
そしてまたおでこにキスした。
(む、無理…)
本当に顔から火が出そうだと、茉莉は思った。
深雪の顔を見るのも、自分の顔を見られるのも恥ずかしくて、茉莉は深雪に抱き寄せられるまま、彼の肩に顔をうずめた。
(あー、なんかこれ、夢なんじゃねえの…)
左側の首筋に茉莉の体温を感じ、髪を撫でている。
(今、ここにまつりがいるんだよな…)
撫でている指先で、茉莉の髪を摘まんだ。
側にいる茉莉の香りが、クラクラするぐらい深雪を誘惑して、深雪は確かに茉莉なんだと思う。
(あー、スゲー可愛い……もーマジで超可愛いし…いい匂い…)
ずっと抱きしめたくてたまらなかった茉莉を、今、自分の腕で抱き寄せている。
実際に抱きしめてしまうと、もっと近づきたくてたまらなくなる。
「まつり……」
深雪は茉莉を抱き寄せていた左手を緩め、少し離れる。
両手で手摺を掴んで、海に体を向けた。
「まつりはそのままでいいから」
「えっ…?」
「オレを優先できないとか、オレのために時間が作れないとか、そういうの気にしないでよ」
「…みゆきくん…」
「まつりは今まで通り、部活に打ち込んで。オレに気を遣わなくていいからさ」
「でも…みゆきくんは、それで…」
それはずっと茉莉が気になっていた事だった。
自分の都合で、深雪を振り回してしまう気がしていた。
「大丈夫だよ。まつりはオレの事とか心配しなくていいから。大丈夫、オレはオレのペースでまつりの事、引っ張っていくから」
茉莉を見る深雪の目は、自信が溢れていた。
「まつりは何も考えないで、今まで通りにしててよ。オレのために『こうしなきゃいけない』何て事は何も無いからさ。まつりは余裕を持ってさ、オレについてくればいいよ」
(ああ…みゆきくんって)
男らしいんだ、と茉莉は改めて思う。
いつも優しくしてくれるのに、大切なところで、いつも強い。
海を背に振り向いた深雪の姿がキラキラして、茉莉は余計に眩しくなる。
「わかった?」
笑顔で、しかし真面目な目で、深雪はそう言った。
「……うん」
茉莉は頷く。
どう転んだって、茉莉の気持ちが深雪へ向いてしまう事は変えられない。そして、深雪からも自分への愛情を痛い程感じた。
(どうして私を……)
改めて目の前の深雪を見て、彼の事を色んな女の子が好きになってしまうという事に納得する。
ただでさえ魅力に溢れた、そんな彼が、自分へと真っ直ぐに想いを向けてくれる。
(どうして私を、そんなに想ってくれるんだろう)
不思議過ぎて切なくて、茉莉は言葉に詰まった。
深雪の手が伸びてくる。
彼は親指で、茉莉の下唇に触れた。
「んっ…」
深雪はほんの少しだけ、茉莉の唇にかする様なキスをした。
茉莉は思わず周りを見てしまう。
キスは一瞬で、2人の周りには人がいなかったので、こちらに注目はされていなかった。
しかし少し離れたところには家族連れや、海を見ているカップルなど休日を楽しむ大勢の人がいた。
「ひ…、人前なのに…」
茉莉は深雪のペースについていけず、再び赤面して慌ててしまう。
「じゃあ、さっきの観覧車乗る?」
嬉しそうに笑う深雪は、半分茶化した感じで、そして半分照れながら言う。
「乗らない……!……今日は」
唇を尖らせてみたが、茉莉はすぐに笑ってしまった。
茉莉の迷いとか、そういうものを超えて、深雪は茉莉へ行動を起こしてくれる。
これまで男子と縁の無かった、茉莉自身の自信の無さでさえ、深雪は忘れさせてくる。
(みゆきくん……)
「いいのかな……」
「うん?」
「私なんかがみゆきくんの彼女で」
「違うよ」
深雪は右手で茉莉の耳に触れた。
「オレ、まつりじゃないと、ダメだから」
そっと、深雪は両手で茉莉の頬を包んだ。
晴れた眩しい昼、海沿いの公園。
青を背景に、深雪は茉莉にキスした。
人目は全く気にしなかった。
「…………」
茉莉が目を開けると、ランニングをしながらすれ違う男性と目が合った。
男性はチラリと茉莉と深雪を見ると、何事も無かったかのようにそのまま走り去ってしまう。
(意外と…他人に反応されないものなんだな…)
茉莉はそう思ったが、体の方はもうドキドキして、ガラにもなく膝が震えていた。
(みゆきくんは…人前でも全然平気なんだ…)
「あっ」
バランスを崩して、深雪に倒れ掛かってしまう。
「大丈夫?」
深雪は茉莉に手を伸ばし、そのまま支える。
「大丈夫じゃないよ、みゆきくん…。こんな事されてたら…私、倒れちゃうよ」
自分でも恥ずかしくなるほど、顔が真っ赤なのが分かる。
さっきからずっと、耳の後ろまで熱い。
熱が出そうだと、茉莉は思った。
「いいよ、倒れちゃっても」
深雪は茉莉を支えていた腕を、そのまま彼女の背中に回した。
両手で思い切り抱き寄せて、そのまま強く抱きしめる。
(オレ、まつりの事、大好きだ……)
しばらく深雪は茉莉を抱きしめた。
茉莉は深雪にハグされて、心臓が飛び出しそうになる。
(みゆきくん……)
積極的過ぎる深雪の行動の全てを、茉莉は受け留めきれないでいた。
(ホントに、倒れちゃいそう…)
指先が震えてきて、余計に恥ずかしくなってしまう。
深雪が腕を緩めた時、茉莉は本当にフラフラしていた。
「大丈夫?ちょっと座ろっか」
近くにあったベンチに2人は座った。
「みゆきくん…、わ、私…こういうの慣れてないから…」
「オレも慣れてないよ」
ベンチに座っても、深雪は茉莉の手を握っていた。
「ごめんオレ、ちょっとしつこいかな?」
「ううん…」
茉莉は首を振る。
深雪にキスされたり、抱きしめられたりするのは嫌ではない。
しかしその度に尋常じゃないほどドキドキして、茉莉はどうしていいのか分からなくなっていた。
「じゃあちょっと離れてみる」
深雪は茉莉から手を離し、茉莉から1人分ぐらいの間を開けて、座り直す。
つい今まで、すぐ隣にいた深雪の気配が、茉莉の体から離れる。
深雪は相変わらずニコニコしていて、茉莉と目が合うと目を細めた。
(やだ、くっついてないのに…)
目が合うだけで、さっきと同じぐらい恥ずかしくて、茉莉はまた赤面してしまう。
(離れてても、ドキドキは変わらないよ……)
思わず自分の頬を手で押さえる。
「のど、渇いちゃった…」
間を繋ごうと、茉莉は言った。
「結構歩いたし、どっかでお茶しようか」
深雪はベンチの背もたれに、腕を置いている。
茉莉には触れていなかったが、腕は茉莉の後ろにあった。
「うん…そうしよ」
落ち着こうと、茉莉は深呼吸した。
「まつり」
「ん?」
「キスしていい?」
「えっ……」
茉莉は目を見開いた。
一瞬落ち着いたはずの胸が、また大きな音を立てる。
目の前にいる深雪の表情は優しくて、甘かった。
その甘い目が映しているのが自分だと思うと、茉莉の胸はもっとギュっとなる。
どうしてだか、泣いてしまうかもと思った。
―― 茉莉は小さく頷いた。
深雪は、ゆっくり触れた。
緊張して固くなった茉莉の唇に自分の唇を重ねる。
深雪の柔らかさに反応して、茉莉も緩んでいく。
茉莉の髪を撫で、深雪はすぐに唇を離した。
「……好きだよ」
そしてまたすぐに唇をつける。
茉莉の唇を、舌で触った。
舌で触れると、もっと奥まで触れたくなってしまう。
深雪は衝動を堪える。
唇を離し、茉莉のおでこに一瞬、自分のおでこを合せた。
「行こうか」
近い距離で目が合う。
茉莉の目は潤んでいるように見えた。
もう1度軽くキスして、深雪は立ち上がる。
「大丈夫?」
「……大丈夫なわけないじゃん…」
「……」
足元の覚束ない茉莉を見て、可愛いなと深雪は思う。
彼女の手をしっかり握って、深雪は歩き出した。