君の香り、僕の事情

●● 5 ●●

   

「みゆきくんも野球やってたんだ」
「オレは少年野球ちょっとやってただけだよ」

バッティングセンターの中にある、軽食が食べられる喫茶スペースで2人はカレーを食べていた。
「初めて亜麻野さんが打つとこ見たけど…、オレ感動した」
「感動って!」
茉莉は白い歯を見せて笑う。
深雪と一緒にいる事にも慣れて、茉莉はかなり緊張が解けていた。
「みゆきくん、野球何年やってたの?」
「小4の終わりから中1までだけど…。って言っても実際にやってたのは2年ちょっとぐらいかな」
「えー、そんな短期間でもあんなに上手いんだ」
「上手くないよ。亜麻野さんの前でバッティングするなんて、正直オレ困ったし…」
深雪は謙遜するわけでも無く、本音でそう言った。

(やっぱり男子ってスゴイなあ…)
野球というスポーツの適性が圧倒的に男子の方にあると、茉莉はいつも思っていた。
女子は懸命に練習を重ねても、やっと、野球を少しかじった普通の男子レベル。
そこから脱して伸びるためには、更に努力が必要だった。
野球部で練習をしている男子を見るたび、女子とは違う身体能力を痛感する。
(みゆきくんが2年であれって、…なんだか女の越えられない壁を感じる…)
「はっ」
バッティングの事ばかり考えていた自分に気付き、思わず茉莉は声を上げた。
「えっ、何?」
その声に、深雪はビクついてしまう。
「あ、何でもない……、みゆきくんのクラスはさ…」
茉莉は笑顔を作り、話をそらした。
(ヤダ…私、みゆきくんにライバル心を持っちゃった)
元々負けず嫌いに超が付く茉莉は、スポーツだけでなく勝負事にはすぐ熱くなってしまう。
それを悟られないように、茉莉は目の前の深雪に別の話題を振る。
深雪は穏やかで、優しく話してくれる。
茉莉も自然に、尖った気持ちが削れていった。


外に出ると、雨はだいぶ治まっていた。
「みゆきくんは不思議だね」
暗い空、街灯の反射する雨粒を見上げて茉莉は言った。
「ん?何が?」
「何か私、今日リラックスできたよ」
「ほんとに?それは嬉しいなあ」
茉莉のその言葉が本当に嬉しくて、深雪は笑顔になり、照れた。
茉莉もそんな深雪の表情を見て、また少しドキドキしてくる。
「雨、だいぶ小降りになったね」
「うん、…そうだ」
深雪が傘を広げる。
茉莉も自分の傘を広げようとすると、深雪が手を伸ばしてそれを止める。
「もうそんなに濡れないし、道狭いから、傘…一緒に入ってよ」
「え…、あ、…うん」
自然に差し出されたその傘に、茉莉は入る。
2人の距離が一気に縮まる。

男子とこんな風にした事の無い茉莉はそれだけでドキドキしてしまうのに、今隣にいるのは、女子から相当人気のある、深雪だ。
「はあ…、夕飯、何かな」
緊張して、思わず関係の無い事を茉莉はつぶやいた。
「ええ?今カレー食べたのに?」
「あ!…う、うん。家に帰っても…晩御飯食べるから…」
(やだ、変な事言っちゃった…)
茉莉は慌てたが、深雪は笑った。
「あはは、じゃあオレも帰って何か食おうかな!」
「うん!食べちゃおう、食べちゃおう!」
茉莉も深雪につられて、笑ってしまう。

(いいなあ、亜麻野さん…)
深雪はすぐ隣にいる茉莉を見て、改めて思う。
背の高い茉莉の表情は、視線を下げなくてもよく見える。
その1つをとっても、他の女子とは違う。
勿論男友達とは全く違う。
それでも少し、男友達と一緒にいる時のような気分にもなる。
それなのに、深雪はドキドキして、自分自身が男だと全身で自覚してしまう。
(ああ…オレヤバイ…)
普通にしようとしても、茉莉の香りに体が反応してしまう。
立ち止まって少し角度を変えれば、背の高い茉莉にはすぐキスできそうだった。
(ダメだ、ダメだ、絶対引かれる…)
もし間違ってキスしてしまったら、自分を止められる自信が無い。
(こんな雨の夜道でって…、オレ変態かよ)
深雪はできる限り冷静に、普通にふるまおうとした。
油断すると茉莉に当たる肩に全神経が行ってしまいそうなのも、懸命に耐えた。



ソフト部の昼錬が無い日、順平達が茉莉達を誘って4組で昼ご飯を食べるのが当たり前のような習慣になっていた。
「って言うかさー、お前らが3組に来いよ。オレらの方が人数多いんだからよ」
席を移動させながら順平が言う。
「嫌だね!3組に酷い別れ方した元カノいんだよ…絶対無理」
樹生が顔をしかめる。
「お前の女遍歴なんて知らねーよ、なあつかさ」
「私に振らないでくれる?」
つかさは順平へ適当に答える。
深雪に誘われて成り行きでこうなったものの、同じクラスのつかさと順平達は自然と仲が良くなっていた。

(いいなあ…同じクラスの奴は…)
深雪は自分の知らないところで親しくなっている順平を羨ましく思った。
「なあ、今日の英語、抜き打ち小テストあるよ」
総一郎が言った。
「マジかよ、オレ何もしてねえ」
「集めた結果、次の時上から発表して返却するってさ。点数悪いと超カッコ悪いぜ」
4人の中で一番成績の良い総一郎は余裕だ。
「あーあ、お前は成績いいからいーよな。茉莉はどうだった?」
順平の言葉に、深雪の眉がピクンと動く。
「茉莉…?」
「はい?」
目の前で名前を呼ばれて、茉莉は深雪に顔を向けた。

「順平…、何お前、亜麻野さんの事、名前で呼んでんの?」
深雪の真剣な口調に、その場にいた全員の視線が一気に深雪に集まる。
「は?」
順平は深雪の言った意味が一瞬分からず、ポカンとしていた。
「えーっと?」
茉莉のその一言で、深雪は我に帰る。
「ああ!!!」
深雪の顔がみるみる赤くなっていく。
そんな深雪の姿に、男たちは爆笑する。
「みーゆーき〜〜〜、お前可愛いなあ〜〜〜」
大笑いして樹生は身を乗り出した。
「う、うるせー!」
深雪は自分がいたたまれなくなって、席を立った。


「あーあ、愛されてるね、茉莉ちゃん」
樹生はニヤニヤして言う。
深雪がいなくなった後、注目は茉莉に集まる。
(みゆきくん…)
「………」
残された茉莉は困っていた。
「大体さ、『亜麻野さん』なんて呼んでんの、深雪だけだってあいつ今頃気付いたのかよ」
樹生は半ば呆れて、それでも笑いは堪えられない。
「たまに思ってたけど、深雪って結構天然なんじゃねえ?」
順平もそう言って笑う。
「でもすごい意外…、深雪くんってもっとすごい女慣れしてる人だと思ってたから…。何かギャップがあるって言うか」
つかさの中で、深雪への好感度がかなり上がった。
「もう、2人付き合っちゃ…」
順平がそう言いかけた時、樹生が机の下で順平の足を蹴った。
「う…何だよ」
順平は樹生を睨んだが、樹生の顔を見て、黙る。
深雪は今回、茉莉に対しては真剣で、絶対茶化すなと何度も深雪は皆に釘を刺していた。
深雪が茉莉の事を好きだという事は、この場にいる全員にバレていたのだが、それを口にすると、後の深雪の反応が恐ろしかったのだ。
「あー、もうあいつはめんどくせーな」
順平は諦めて、コンビニの袋からおにぎりを取り出した。


「ねえ、深雪くんって、まつりの事好きだよね?」
放課後部室へ向かう途中、つかさが茉莉に言った。
「えー…」
「好きって言うか、大好きだよね?!」
「ええー…」
周りにそう言われても、茉莉は困った。
確かにメールをくれたり、ご飯に誘ってくれたり、2人で遊びに行きたいと言われたりしている。
(好かれてるのは、分かるけど…)
「この前も、放課後デートしたんでしょ?でも、深雪くんだけ未だに『亜麻野』って呼んでるんだね」
つかさは昼休みの事を思い出して笑った。
「つかさだって、大垣さんって呼ばれてるじゃん」
「私の事、大垣さんって呼ぶの、あの中で深雪くんだけだよね」
つかさは少し考えて続けた。
「深雪くんって、見た目よりずっと真面目な人なのかなあ?」
「みゆきくんは真面目だと思うよ」
茉莉は激しく頷いた。
確かに深雪は女子にモテていたが、校内で浮いた話を聞いた事が無い。
茶髪でソフトな雰囲気のせいで見た目は軽く見えるが、実際には樹生のように女子に気軽に接しているわけでも無い。どちらかと言えば、女子に対しては冷たいぐらいだ。
「今日、すごいギャップに萌えちゃった♪」
つかさはニヤけて頬に手を当てる。
「深雪くん、やっぱりカッコいいよね〜、あんまりタイプじゃないけど、今日の深雪くんはすごく可愛かったよ〜♪」
「まあ……うん」
茉莉は曖昧に頷く。
「もう、まつりから告っちゃえば?」
「ええっ?」

(そんな…)
「な、なんで私がみゆきくんの事、好きって事になってるの?」
「えー!深雪くんの事、好きじゃないの?!」
つかさが大げさに言うので、逆に茉莉がそれに驚いてしまう。
「別に嫌いじゃないけど…好きだけど、告るとか、…そういう好きかって言われると…」
(大体、1回しか2人で会った事無いし)
深雪と一緒にいるのは嬉しいし、楽しくもあった。
2人でいるとすごくドキドキしたが、それが深雪だからなのか、ただ自分が男子慣れしていないせいなのかは、実際のところ茉莉としてはよく分からなかった。
「え…、そうなんだ…」
驚きが落ち着いて、つかさは冷静に茉莉を見た。
「うーん…どうなんだろう…」
「深雪くんを好きにならない女子っていうのもビックリだけど、あんなに深雪くんに好かれてて、それで深雪くんを好きにならないっていうのも、ちょっと信じられないよ!」
「つかさだって、別にみゆきくんの事好きじゃないじゃん」
「だって私は、深雪くんカッコいいけど好みじゃないし〜、別に深雪くんから好かれてもいないしさ」
「私は……」

「つかさ〜!そして噂のまつりっ!」
後ろから、同じ部の彩矢(さや)が2人に抱きついてくる。
「もう…、何?噂って…」
「私が昼休み部室で食べてる間に、4組でいつもネタ投下してくれてるらしいじゃん〜」
「何で知ってるの」
「4組に戻ると、いつもクラスの子から『亜麻野さんって…』って聞かれるもん。あ、私はいい奴だよって褒めてるから安心して」
「………」
直接的に言われる事が少なくなったとは言え、深雪はいつも人から注目されている。
(そうなんだよね…)
茉莉はため息をついた。


キャッチャーを座らせ、茉莉はピッチングの練習をする。
本来ならバッティングに集中したいのだが、茉莉はピッチングをしても他の部員よりもセンスがあるため、ピッチャーは他にも数名いたが常にピッチングの練習もしていた。
ボールが離れた時の、薬指が跳ねる感覚が好きだった。
ピッチングに才能があると自分では思っていなかったが、それでも投げる事は好きだ。
勿論ボールがバットにジャストミートした時の瞬間の、あの感覚はもっと好きだった。
ソフトボールが好きだった。
そしてその時間が自分にとって一番大事でもあった。


練習が終わり、部活の仲間たちとしゃべりながら、昇降口で靴を履きかえる。
「ちょっと、まつり!」
彩矢が気付き、茉莉の肩をバシバシと叩く。
「ちょっと、肩はやめてよー…」
上靴を下駄箱に戻し、茉莉は振り返る。

「あ…みゆきくん……」

出入り口に、深雪が立っていた。
生徒の流れの中、ただそこに立つ深雪の存在感は、周りの時間を止めていた。

「どうしたの…?」
茉莉は深雪へと近付いた。
「……一緒に帰ろう」
深雪は茉莉を促すように歩き出す。
茉莉が後ろを振り返ると、つかさ達が行け行けと手で伝えてくる。
少し早足で歩く深雪の後を、茉莉は小走りで追いかけた。

 

 

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