2時間目が終わろうとしていた。
順平は横目で茉莉を見る。
先日の席替えで、順平は茉莉の席の隣になった。
茉莉は窓側の前から3番目。順平はその横だ。
(よく寝てんなあ…)
朝練が終わって、ダッシュで教室に入ってから、1時間目2時間目と通して茉莉は寝続けていた。
授業が終わり、休み時間に入ってもまだ寝ている。
次の授業は数学で、居眠りを許さない厳しい教師だ。
「おい、茉莉、起きろよ」
見かねた順平が声をかける。
しかし茉莉は机に両手をついて突っ伏したまま、ピクリとも動かない。
「おい、いつまで寝てんだよ、やべーぞ、起きないと」
順平は茉莉のイスの足を軽く数回蹴った。
ビクンと大きく体を揺らし、ゆっくりと茉莉は起き上がる。
「うわ、きったねー!」
茉莉が顔を上げながら机によだれを垂らしているのを見て、順平は思わず言ってしまう。
「あっ!」
すぐに我に返った茉莉は、急いでタオルを出して口を拭き、そして机を拭いた。
(机、汚ねえ…)
一連の様子を見て、順平はかなり引いた。
「み、見た?」
茉莉は真っ赤になり、慌てている。
「見たよ…。汚ねーし、お前どんだけ寝てんだよ…」
順平は呆れて、机に肘をついてため息をつく。
茉莉は時計を見て、自分が2時間目が終わった今まで爆睡していた事を始めて知る。
「やだ…。マジで爆睡してた……」
「あーあ、お前のこんな姿、深雪が見たらガッカリするぜ〜」
茶化した順平の言葉に、茉莉はさらに真っ赤になる。
「や、やめて!!!み、…みゆきくんだけには言わないで…」
「ええ〜…」
面白がって順平は笑う。
「お願い〜…、絶対言わないで!」
茉莉は順平に向いて、真剣に懇願した。
「まあ、言わねえけどさ…」
順平もじっと茉莉を見返した。
(「みゆきくんだけ」って何だよ)
先日深雪から、茉莉に告白したが振られた話を聞いた。
(茉莉も余裕で深雪の事好きそうじゃんか……)
色々と言いたい事があったが、何か言うと深雪から酷く怒られそうなので、順平は言えない。
普段穏やかな深雪が怒る時は、なかなか根深くて怖かった。
(付き合っちゃえばいいのに、変な奴ら…)
恥ずかしそうにしている茉莉を、順平は観察する。
(オレのタイプじゃねーな…)
順平はもっと女子っぽい子が好みだ。
彼にとって茉莉の存在は体育会系過ぎて、まさに男子じゃないが女子でもないといった感じだった。
「最近、茉莉の事待たないんだ?」
樹生と一緒にいる深雪に、順平は言った。
「あんまり毎日待ってるのもな…。1回ハッキリ振られてるのに」
深雪は笑った。その笑顔の裏にある本心は見えず、自虐的なのか余裕があるのか、順平には分からなかった。
そして深雪の顔を見て、何となく今日の茉莉の事を思い出す。
(言ったら茉莉に超怒られそうだよな…)
自分の中でだけ、ちょっとニヤリとしてしまう。
3人で駅まで一緒に行き、電車に乗る。
車内は暖房が効いていて、一気に汗ばんでくる。
「オレ、今日用事あってこのまま乗ってくから」
両手でつり革を掴み、樹生は2人に行った。
順平は深雪を見る。
「深雪と2人なのも珍しいな…。久々にオレんち来る?」
「うわ、なんかずるくね?オレのいない時に」
樹生は一瞬ムっとしてから笑い、順平を睨む。
「お前はしょっちゅう来てるだろ」
順平も言い返した。
樹生と順平は一緒に行動する事が多く、仲が良いのだが小競り合いも多い。
「どうする?深雪?」
「行く行く、久しぶり、順平んち」
深雪は嬉しそうに頷いた。
「あー、久しぶり、相変わらず散らかってんな」
順平の部屋に入るなり、深雪は言った。
「うるせーな」
「うそうそ、冗談だよ。オレの部屋、今日もっと散らかってるかも」
「マジかよ。今度お前んとこにも行かせろ」
「いいよ、全然。来いよ」
深雪はカバンを置いて、上着を脱いだ。
順平は制服から着替えて深雪の斜めに座り、帰りに寄ったコンビニの袋から飲み物を出す。
深雪も自分が買った飲み物を出し、割り勘したおやつを座卓に広げた。
「順平、まつりの隣の席なんだろ。いいよな…超羨ましいよ。オレと代わって欲しいよ」
「オレ別に全然嬉しくないから、いつでも代わってやるけど」
「なんだよ、まつりの隣じゃ不満なのかよ」
深雪が軽く逆ギレする。
普段は周りの事に対して反応が薄いのに、茉莉の事になるとすぐムキになる深雪が順平にとっては新鮮だった。
「別に不満とかそういう話じゃねえだろ」
(子どもかよ…)
順平は笑ってしまう。
しばらく雑談をした後、順平は深雪に聞いてみる。
「なあ、前から思ってたんだけど、深雪ってモテるし女子選びたい放題なのにさ、何で茉莉なの?」
「うーん………」
深雪はしばらく黙ってしまう。
順平は深雪の機嫌を損ねたのかと思い、その沈黙に焦ってくる。
「どれにしようかな、じゃないんだよ。これが欲しい、なんだよ。…分かるか?」
「何となく分かるような…。いや、お前の言いたい事は分かるけどさ」
「オレがモテるとか、そういうのは関係ねーんだよ」
(そういう事、サラっと言うんだよな…)
順平は深雪のそういうところに感心する。
モテている自覚は常にあるのに、言い寄る女子に興味が無さ過ぎて嫌味にすらなっていないのだ。
「で、何で茉莉なの?…これ、スゲー聞いてみたかったんだけど、茉莉のどこがそんなに好きなの?」
順平は深雪を怒らせないようにしようと、気を遣おうと思ったが、言葉にしてしまうと全然そうならなかった。
好奇心の方が勝ってしまった。
「……絶対、言わない約束できる?」
「あ?ああ。うん」
深雪に真面目に返されて、順平は一瞬ひるむ。
「マジで、言うなよ…。樹生とか、総一郎にも言うなよ…誰にも言ってないから、…バレたら順平が言ったってすぐ分かるからな」
念を押すように瞬きをする、深雪の睫毛が揺れた。
「ああ、言わねえよ」
(こえーよ…深雪…)
深雪が怒るところを想像すると怖すぎて、順平は神妙に頷いた。
「なんかさー、可愛いじゃん〜…」
深雪の表情が一気に崩れる。
順平は彼のそんな様子に拍子抜けして、ガクリと肩が落ちた。
そんな順平の様子を気にせず、深雪は続けた。
「全然説明できないけどさ、…とりあえず、全部いいんだよ」
そう言いつつ、深雪が照れる。
溢れてくるピュアな感じに、順平も当てられてしまう。
(うわー……マジか、こいつ)
普段と全く違う深雪に、順平までドキドキしてくる。
(って言うか、オレ女だったら絶対こいつの事好きになってるわ。スゲー、ギャップ萌え。そりゃーモテるわけだぜ…)
深雪にそう思わされてしまうのが、悔しいといつも順平は思う。
「あとさ…、これ絶対言わないで欲しいんだけど」
「ああ」
順平は頷く。
「…これ、ずっと誰かに聞いてみたかったんだけど」
「うん」
「………」
「…」
ゴクリと順平の喉が鳴る。
「………」
「って、黙るのかよ、そこで!」
「悪い悪い……えーっと…」
深雪は意を決して、言う事にする。
「まつりってさ…、 す…、すごいいい匂いしないか?」
「匂い????」
「順平、隣の席じゃん?分かんないか?」
「ええーーー……???」
思い出そうとしても、順平は全く分からない。
「……匂いが分かるほど、近寄ってないしな…」
「そうか…」
深雪は複雑な気分だった。
あの茉莉の匂いを感じるのは、もしかしたら自分だけかも知れないとは薄々思っていた。
あんなに良い匂いなのに、男仲間の間で話題に上がらないわけがない。
深雪には、茉莉が教室に入って来ただけでも、その香りが分かる。
だから隣の席で、その匂いを感じないはずが無かった。
「どんな匂い?」
「これって言うのが無いんだけど…、甘い系が強い日もあるし、フルーツっぽいと言うか…でも全体的には花っぽいと言うか…」
「なんか付けてんのかな。オレ全然気づかなかったけど」
「そういう人工的なんじゃないんだよな…オレも最初はシャンプーとかかなと思ったけど、そういう匂いじゃないんだよ」
「へー、今度気にしてみるよ」
順平が言った。
「でも多分、…オレしか分かんないんだと思う」
ポツリと深雪がつぶやく。
「へ?」
「なんかちょっと変態みたいで自分でも怖いけど…、オレは離れててもスゲー分かるから、順平が隣の席で分かんないっていうのだったら、多分分かんないんだと思う」
「なんだ?それ?」
順平はキョトンとしている。
順平が理解できないのも当然だと深雪は思う。
「なんなんだろうな。要するにさ、オレ、多分スゲーまつりの事が好きなんだよ」
日が落ちるのが早いので、ソフト部の練習も早々に終わり、5時過ぎに校舎を出る頃にはすっかり真っ暗になっていた。
「茉莉は今日も一緒に帰れる?」
「うん」
「深雪くんが来ないと寂しいんでしょー?」
ソフト部の子達全員に、深雪と茉莉の友達以上の関係は知られていた。茉莉自身が交際を否定していても、実際に周りはそう見ていない。あまり否定し過ぎると、そんな風には思ってもいないのに茉莉が深雪を自身を否定するみたいな気がして、最近は人に言われるがままだった。
(寂しい、か…)
待っていてくれる深雪の姿を、まつりは思い浮かべる。
付き合ってと言われて断って以来、それまで深雪は頻繁に茉莉の帰りを待っていてくれたが、今はそれも時々になっていた。
自分で交際を断っておいて、寂しいなんておかしいと思う。
付き合う時間が無いから、無理だと思って深雪の告白を断った。
だけど実際に離れている時間、茉莉は深雪の事ばかり考えている。
断っているんだから、深雪を束縛する権利なんて自分には無いと茉莉は思う。
それでももし、深雪が他の女の子と付き合ったらと考えると、茉莉の胸は痛んだ。
(みゆきくんに他の女の子と付き合って欲しくないから、みゆきくんを縛るために自分と付き合って欲しいなんて……デートする時間だって作れない私が言えるわけないよね…)
本当は、深雪の事が好きだった。
好きだと素直に言ったら、多分2人の関係は大きく変わる。
茉莉はこれまで男子と付き合った事が無いので、『付き合う』という事はよく分からなかった。それでも、何となくイメージしている事はある。
街で見かけるラブラブなカップルみたいな姿を、自分からはどうしても想像できない。
変わりたくない気持ちと、深雪へ対する想い。
そして部活中心に回る自分の生活。
先日、学校の先生を通して、冬休みにT大学の練習に参加しないかと誘われた。合宿だった。
現役の日本代表選手もいて、他に高校生で呼ばれている子も代表候補だ。
勿論茉莉は参加する意志を教師に告げた。
(みゆきくん……)
もしこのままT大学の推薦が決まれば、卒業とともに今住んでいる場所を離れて、寮生活になる。
(どっちにしても…会えなくなるし…)
茉莉は深雪への気持ちを諦めていた。
順平の部屋でゲームをしたりしながらダラダラしていると、深雪の携帯が鳴る。
放課後、深雪は茉莉にメールを送っていて、その返事が返ってくる。
絵文字入りの茉莉からのメッセージ。
『今電車?』
深雪も茉莉へメッセージを返す。
電車に乗ったところだという茉莉のメッセージがすぐに携帯に表示される。
『駅まで行くよ。帰り送ってく』
深雪はそう打った。
『順平と遊んでるんでしょ?いいよ、悪いよ…』
遠慮した茉莉のメッセージが送られてくる。
それでも深雪は茉莉を家まで送ると改めて入れて、会話をそこで切った。
「オレ、帰るわ」
深雪は立ち上がり、自分のコートを取る。
「茉莉?何?これから会うの?」
順平も深雪を玄関先まで送るため立ち上がる。
「うん…これから送ってく。今日、ありがとな」
コートを着ながら、深雪は足早に部屋を出る。
順平はその後をついて行く。
「お前ら、もう付き合ってるみたいじゃん」
深雪の後ろから、順平は言った。
「付き合ってないけどな」
スニーカーに足を入れ、強引にかかとを突っ込みながら深雪は答える。
「もう、付き合っちゃえよ」
面倒くさい奴らだと、順平は思う。
「…付き合いたいけどな」
そう言ってフっと見せた笑顔の深雪は、少し寂しげだった。
しかしそれも一瞬で、すぐにいつもに深雪に戻る。
「いいんだよ、オレはこうやって既成事実を重ねていくから」
そして普段どおりの不敵な笑みを見せた。
順平の家を出て、深雪は走って駅まで向かった。
(もうこれ以上好きにならないようにしなきゃって思ってるのに…)
茉莉は駅のロータリーのベンチで、深雪を待っていた。
(こうやって強引に、…会う時間を作ってくれる…)
膝に置いたバッグの上に手袋をした両手を乗せ、駅の改札の方を見る。
ハアと吐いた息が白く、遠くまで広がった。
深雪からのメッセージは、『駅のタクシー乗り場のとこの、あのベンチで待ってて』だった。
(『あのベンチ』の、『あの』って…)
今座っているこの場所、ここで深雪にキスされた。
その時の事を思い出し、これから深雪が来る事を考えて、また茉莉はドキドキしてしまう。
しばらく停車しては去っていくタクシーの車列を、茉莉はぼんやりと見ていた。
駅の方を見ると、光を背にして背の高い学生服の人影が近付いてくるのが見える。
(みゆきくん……)
茉莉は立ち上がる。
姿を見ただけで切なくなって、ちょっと泣きそうな気持ちがこみ上げてくる。
(なんでこんなに好きになっちゃったんだろう…)
バッグをギュっと抱えた。
下唇を噛んで、鼓動の早くなった心臓を鎮めるために、茉莉はゆっくりと深呼吸した。