ラバーズ(Lovers)

☆☆ 10 ☆☆

   

月曜日の昼の授業が終わり、世羅に声を掛けられるまでボクは爆睡していた。

「しかし、…よく寝てたな」

世羅はあきれた様子で言った。
ボクといえばまさに寝起き状態で、半笑いの世羅にジロジロ見られているというのにあくびを何度も繰り返した。
「お前、今日もバイト?」
腕時計に目をやって、世羅は席を立つ。
「うん…。そうだけど」
ボクもやっと腰を上げて答えた。

「いつもの漫喫?だったらちょっと何か飲まないか?暑いし、ノド乾いてさ」
廊下を歩いているだけなのに、太っている世羅はもう顔中に汗をかいていた。
「いいけどさ…」
アルバイトまでは時間があったし、ボクは世羅についていくことにした。
体中がダルかった。

「…………」

土曜日にあんな風になって、昨晩もボクらは何回セックスをしたんだろう。
いや、セックスが何回、なんていうカウントの仕方は意味がないのかもしれない。
ボクが何回出したかっていうのがイコールセックスなら数えようもあるんだろうが、実際のセックスというのはもっと曖昧に流れているもんなんだって、ボクは知った。
そう思ってしまう程、ボクたちはただひたすらに体を合わせた。

(はあ……)

杏菜が側にいると気にならないが、さすがに1人になると(現実には横に世羅がいるが)、どっと疲れが出た。

ふと携帯が震え、開いてみると杏菜からメールが来ていた。
さすがに不便だから、ボク名義の携帯をもう1台契約して杏菜に渡したのだ。
携帯の文字を目で追う速度で、ボクの心に彼女の声が響く。
そしてドキドキしてくる。
バイトまで、空いている時間会えないかという内容だった。
一緒に暮らしているからもちろん今朝も会っているし、バイトから帰ればまた家で会えるというのに、こんな風に言ってくれる彼女にボクはジーンとしてくる。
すごく、嬉しかった。
ボクは横目で汗だくの世羅を見る。
「あ、あ、あ、あのさあ……」
思わず口篭もってしまう。
「なんでしょうか?」
世羅は眼鏡の縁を太い指で押さえながら、アニメキャラみたいな声を出して答えた。



「か、か、か、……彼女ができたあ??」
今度は世羅が噛みながら言った。
「うん……。まあ…」
そう答えながらもボクは恥ずかしい。
杏菜が来るというので、ボクたちは駅ビルの入り口で待ち合わせた。
ボクに彼女ができたという事を、世羅は全く信じられないようだった。
そうだと思う。
ボクだって未だに半信半疑だ。

「なんでなんで?どういう出会いで?……どんな……」
質問を一気にまくしたてる世羅のずっと向こう側に、杏菜が見えた。
彼女もすぐ、ボクに気がついて目が合うとにっこりと笑った。
やっぱり可愛かった。
ボクの様子が変化したのを察知して、世羅が杏菜の方へ振り返る。
「か……」
一言つぶやき、そしてボクに向き直ると怒った顔で続けた。
「可愛いじゃんか!」


ボクらは駅のすぐ近くにある地味な喫茶店に入った。
ここはこんな風貌のボクらがいても、そんなに浮かないで済む貴重な居場所だった。
とりあえず、席についた。
太っていて汗だくで、黒いフレームの眼鏡をかけた世羅。
ボクはと言えば、眼鏡は中学生がかけるような銀縁で、何度も洗い倒してくたびれたTシャツを着ていた。
そのシャツから伸びる腕は筋肉もなく真っ白だ。
そんなデブ痩せコンビでどう見てもオタクの、ボク達が向き合う。
そしてボクの隣には、…オタク二人には不似合いな可愛い女の子が座っている。

ボクは何て言っていいのか、かなり迷った。
「えっと……」
世羅を見ながら、ボクは杏菜を腕で指し示す。
「ボクの彼女の、……杏菜。……こっちが大学の友達で、世羅。」
「どうも」
世羅は杏菜を見て、困ったようにニっと笑うと少し頭を下げた。

「………」
「?」
視線を感じてボクが彼女に顔を向けると、杏菜は驚いたようにボクをじっと見ていた。
「『彼女』……?」
杏菜はボクに聞こえる程度の小さな声でつぶやいた。
ボクはまずいこと言っちゃったかと思い、一瞬で汗が出てくる。

「…………」

みるみる笑顔になっていく杏菜は、恥ずかしそうでいて嬉しそうだった。
「いつも、優哉がお世話になってます♪」
そう言って世羅に挨拶すると、杏菜はすぐにまたボクを見てより一層の明るい笑顔を返してきた。


杏菜に会う前、世羅はボクに彼女ができたことやボクなんかが女の子に本気で相手にされているのかという事を、思いっきり疑ってかかってきていた。
それなのに、実際にボクらの前に杏菜が現れると、空気は一変した。
どう見てもボクと杏菜の雰囲気は恋人同士だったし、そしてボクが言うのも変だが、杏菜がとてもボクを好きだというのが彼女の態度全てに現れていた。
目の前にいる世羅は完全にボクらに当てられて、何とも居心地が悪そうだった。


しばらく話してから世羅と別れ、杏菜と二人になった。
だがバイトの時間が迫っていて、すぐに彼女とも別れなければいけなかった。
杏菜を見送るのに、バイトの方向とは反対側のホームにボクは彼女といた。
「………」
自然に杏菜の手がボクへと伸びてくる。

「早く、帰ってきてね……」
「うん……」

至福すぎる。
あまりの幸せに、ボクはマジで立ちくらみがした。

しかしこんな時に限って、すぐに電車が来てしまう。
「じゃあね、優哉、バイト適当にね」
そう言って杏菜は悪戯っぽく笑った。
「杏菜も、気をつけて帰って……」

そこでボクは唇を塞がれた。


呆然と立ちすくむボクだけをホームに残し、杏菜はドアにぴったりとくっついて手を振りながら去っていった。

「………」

こんな、漫画みたいな事…。
実際に自分の身に起きているなんて。

ハっと我に返り周りを見回すと、何事もなかったように人々はホームを歩いていたり立ち止まったりしていた。
(東京って、すごい所だ……)
こんな…ボクにとっては事件とも言える出来事さえも許容されてしまうなんて、すごい場所だと思った。
(バイト、行かなくちゃ……)
ボクは急ぎ足で山手線のホームへと向かった。



「会員のお申し込みは、こちらの用紙に記入いただいて〜…」
バイトでカウンターに立つ時間帯は、マニュアルどおりの受け答えを繰り返す。
漫画喫茶での仕事は、これまでのボクの日常と何ら変わりはない。
しかし私生活がこんなにめまぐるしく変化するなんて、1ヶ月前のボクには全く想像だにしなかった。
「…………」
いつものバイトの情景に身をおいて、ぼんやりと手を止めた。
今夜、ここから自分の部屋に戻ったら、何もかも杏菜と出会う前の状態だったりして…とふと想像する。
その想像はあまりに現実的過ぎて、ボクは怖くなる。
数時間前に抱いた幸せな気持ちも、波打ち際の砂山のように簡単に消えてしまいそうな気がした。

(杏菜……)

そばにいたくて、たまらなくなる。
今すぐに、ボクのそばに来て欲しい。
ついさっきまで、ボクの隣にいたのに。
会いたくてたまらない。

ドキドキした。

同じぐらい、なんでだか胸が痛かった。



満喫から駅までも、乗り換えも、駅から部屋までも、バカみたいに走ってボクは急いで杏菜の元へと向かう。
その間もずっとドキドキして、そしてどうしてだか不安でたまらなかった。
部屋の明かりは点いていた。
ボクはドアを開けた。

杏菜はドア口で立っていて、鍵を外すボクを待っていた。

「おかえりぃ〜〜♪」

すぐにボクに抱きついてきて、その腕にギュっと力を入れてくる。
「た、…ただいま……」
走ったから息が上がっていて、それだけ言うのが精一杯だった。
いや、言葉が出ない理由はそれだけじゃなかった。
さっきまでの嫌なドキドキが一瞬で消えて、ほっとして座り込みたくなる。
杏菜と同じように腕を回し返す事ができなくて、ボクはただの棒みたいだった。

「………」

抱きついたまま、杏菜は上を向いてボクを見た。
ボクは、その瞳の奥に吸い込まれていく。
明るい輝きを放ちながらも、憂いをたたえたその揺らぎにボクは魅せられる。


「…………」


唇が重なると、ボクたちはお互いの体を触った。
何も語り合わないまま、すぐにベッドへとなだれ込む。


「ああ……優哉……。優哉……」
「杏菜…」

本当に、切り貼りしたように昨晩の続きだ、とボクは思う。
彼女が来てからのこの部屋は、文字通り別世界だった。

(これが現実でなくても………)

ボクの舌には彼女の唇の感触がある。
繋がろうとしたその先に、感じる滴りは確かなものだ。
ボクは心の中で首を振った。

(これは、夢じゃない……)

掌や唇や、腰やその部分で感じる感触で、ボクはまた杏菜を知る。

もっと、そばにいたいよ――



切なくて、泣けてきそうだった。
ボクは、恋を知った。

 

 

ラブで抱きしめよう
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