ラバーズ(Lovers)

☆☆ 14 ☆☆

   

渋谷であの男に会ってからボクの部屋に戻るまで、杏菜は一言もしゃべらなかった。

「…………」
杏菜はベッドで横になって、置きっぱなしになっていたアニメ雑誌をパラパラと見ている。


あの男のことが気になって仕方がなかったけれど、それを彼女にどう切り出していいのか分からない。
杏菜はかなり不機嫌だったし、それ以上に怯えているように見えた。
(アサカ、って言ってたな……)
彼女が名乗っている今の名前も、もしかしたら本当の名前じゃないかもしれない。
(杏菜……)


「ねえ、優哉」
「あっ、なに??」

彼女の方から突然話しかけられて、ボクは素っ頓狂な声を出してしまう。
「お腹空いちゃった……。なんか買いに行ってくれない?」
「う、うん……」
ボクは立ち上がった。
杏菜の言い方は決して偉そうではなくて、どちらかというと懇願しているように聞こえた。
「何か、リクエストある?……コンビニだけど」
「優哉の食べたいものでいいよ」
杏菜はチラっとボクを見ると、少しだけ笑顔を見せた。
帰宅してから初めての笑顔で、ボクはちょっとホっとする。
財布をズボンのポケットに押し込んで、ボクは靴を履いた。
「あっ……、杏菜」
ボクは玄関口で、振り返った。


「ど、………どこにも行かないでよ」

ボクの言葉に杏菜は雑誌を胸に落とすと、また笑顔になる。
「行かないよ、どこにも」
そう言って横になったまま、ボクへと手を振った。


嫌な予感がする。
あの男に会ってから、それは強烈になってきた。
杏菜がボクの家に来てから彼女がそばにいてくれるのにどこか不安で、そして両想いになってからはその不安はさらに大きくなっていた。
杏菜が突然ボクの前から去ってしまうような気がして。

『言ったの?…………私がそこにいたってこと』
『言えるわけねえだろ』

たぶん彼女は誰かに追われているんだ。
彼女の周りで、“何か”が起きているのは分かった。
それが結構深刻な事だっていうのも。
あのヤクザっぽい男、杏菜に関わりたくないとハッキリ言っていた。
(ああ、一体なんなんだよ……)
ボクのモヤモヤは大きくなる。
(だけど……ボクは…)


――― そして確信した。

ボクは、何があっても杏菜のそばにいたい。
例え自分自身が何か大きなものに巻き込まれようとも、杏菜を信じたい。
杏菜を守りたい。

今や彼女はボクの全てだ。





「杏菜!どこか行こうよ!」

部屋に帰るなりそう言ったボクに、杏菜はあからさまに怪訝な目を向けた。
「え……、私、そういう気分じゃ……」
「杏菜」
ボクは杏菜が座っているベッドの、隣に腰を下ろした。
「遠くに行こう、お…お金がないから、そんなに何日も行けないけどさ…あっ、パスポートもないから海外もムリだけどさ……どこか、東京じゃないとこに」
「優哉…」
杏菜はポカンとしていた。
「せっかくの夏なんだし、ボクの部屋だけだと息が詰まっちゃうだろ?」
ボクは華奢で白い杏菜の手を握った。
「でも……」
目を泳がせて、彼女は困っている。
「バイト代も、ちょっと出るしさ……、ね?」
実は予約してたアニメのDVDセットを、先日キャンセルしたところだった。
今までのボクの趣味だって大事だったけど、杏菜以上に大切なものなんて、ボクにはもうない。
自分でも可笑しいほど、必死に訴えてしまったと思う。
ここで過ごしたって良かったけれど、ボクらのことを誰も知らない所に行きたかった。
そうしないと、彼女が消えてしまうような気がした。

杏菜は目の端を下げ、ニコっと笑う。
その笑顔が、本当にすばらしく可愛いと思った。
杏菜の手が伸びてくる。


「優哉」

今度はボクがビックリした。
杏菜はボクの首に腕を回して、ギュっと抱きついてきた。

「ありがとう………優哉………」

首元に触れる彼女のぬくもりが、温かかった。
「いや……その…」
ボクは口ごもってしまう。
杏菜の腕の力が、さらに強くなる。


「大好き………ホントよ……」


(ああ……)

今までのボクの人生の中で、こんな風にボクを想ってくれた人はいない。
好きだというその言葉が嘘偽りではないこと、それを理屈ではなく感覚で実感する喜び。
(好きだ………)
毎日、一日中杏菜がそばにいるというのに、
こんな風に抱きしめ合えるのが奇跡みたいな気がする。
ボクは彼女の髪を撫でた。

「…………」


ボクの腕の中にいる彼女の体温。
肩にかかる息。
その全てが現実のことなのに、ボクにとっては夢以上だ。
そして何よりも、杏菜の、ボクに対する想い。
本当に、奇跡としか思えなかった。

誰かに存在を認められる――――
20年以上生きてきたのに、そう実感できたことなんて今までなかった。
ボクはクラスでも目立たない存在で、好きなものといえば非現実世界のものばかりだった。
たぶん、突然ボクが消えても…まあ両親ぐらいは悲しむだろうけど、ボクが存在しない事が誰かに影響を与えるとは思えない。
あんなに毎日繋いでいたネットだって、落ちてもう1ヶ月以上経っていた。
(だけど、今……)
杏菜がボクを大事に思ってくれている、そしてボク自身が杏菜を大事に思っている。
…それが本当に嬉しくて、言葉では言い尽くせない。
何かに感謝せずにいられない気分だ。


(神様って、いるのかも………)

なんだか切なくて、泣けそうになってくる。
今、世界が終わったっていいと、マジで思った。

 

 

ラブで抱きしめよう
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