ラバーズ(Lovers)

☆☆ 15 ☆☆

   

 

杏菜にとっての、ボクの存在。
もしかしたら彼女にとっては、ボクじゃなくても良かったんじゃないだろうか。
そんな思いを、ボクは心の奥へ奥へと押し込み、隠していた。
ボクにとっての杏菜は、夢みたいな存在だった。
触れられる、夢。
目を覚ますと、突然消えてしまいそうに儚いもの。



「伊豆……伊豆じゃあ、近すぎるか……」
近所の旅行会社から貰ってきたパンフレットと、パソコンを交互に眺めながらボクは呟いた。
杏菜はベッドの縁に座り、そんなボクを見てくすくす笑っている。
ボクはその視線にすら温かさを感じ、嬉しかった。
「軽井沢とか……」
「軽井沢は、イヤだな」
時々杏菜が口を挟む。
人目につくような場所は避けたいみたいだった。
「うーん、遠すぎると…金がないし…」
豪勢に沖縄!とも思ったが、先立つものがないし、何よりもボクに海は似合わなさ過ぎる。

「八王子とかは?」
杏菜が笑いながら言った。
「ええ〜〜、それじゃ旅行にならないよ」
ボクは困ってしまう。
ベッドに突っ伏して、杏菜は爆笑していた。



「優哉………、好き……」

杏菜の息が、ボクの耳にかかる。
「こうして二人でいられれば、私はいいんだけど……」
結局、裸になってベッドに横たわるボクら。
「うん……」
頷きながら、ボクは杏菜の頬にキスした。

あの日から、杏菜は全く外に出ようとしなかった。
二人でいるときの部屋では、彼女はいつもボクにくっついている。
いつもそばにある温もりが愛しすぎて、ボクはいつも不安になってしまう。

「杏菜にとってのボクって………」

「ん?」
大きな目をさらに大きく見開いて、少し驚いた様子で杏菜はボクを見た。
「な、なんでもない……」
ボクは首を振った。
口に出してしまって、自分でもビックリする。
何だか、聞いてはいけない気がした。
杏菜の素性とか、杏菜の本心とか、ボクはいつも目を背けていた。
「ふうん……」
杏菜はボクの胸にぴったりと顔をつけてきた。
ボクのドキドキが彼女にバレてしまいそうで、余計に心臓がバクバクする。

「優哉と一緒にいることが……」
「……」
もっとドキドキしてくる。
杏菜の柔らかい声が、ボクの心に甘く響いていく。


「私の幸せなの……」


(杏菜……)

うっと涙が溢れてきそうになって、慌ててボクは杏菜へと手を伸ばした。
ボクの胸にいる小さな杏菜を、ギュっと抱きしめる。
誰かにこんな風に思われたことなんてない。
ボクの大好きな杏菜が、そんな風に言ってくれた事に感激してしまう。
杏菜との日々は、ボクにとって感動の連続だ。

「離さないよ……」
「優哉……」

「絶対」

ボクは心に誓った。

『離さない』なんて、ドラマや映画で俳優が言うみたいな台詞。
こんな言葉、ボクには全く無縁のものだと思っていた。
だけど今、ボクは思う。
このたまらない不安や、コンプレックスの塊みたいなボク自身、
そんな全てを振り切って杏菜を守ろうと。
価値なんて微塵も感じられないボクの人生に、杏菜は勇気をくれた。


彼女のためにボクは存在する。
彼女がいるから、生きていける。

愛しいと思う気持ちがボクの真ん中にあって、それが全てを支えてくれる。
この想いは、ただひとつ絶対に確かなものだ。
どんなにボクがイケてない男であろうとも。
どんな苦難が待ち受けていようとも。




優柔不断なボクは、旅行先をなかなか決められなかった。
それから数日が経ち、バイトのシフトを交代していたのをすっかり忘れて寝過ごしてしまった朝だった。

「うっわ〜、マズイよ!えーっと、メガネメガネ……」
「優哉、そこにあるよ」
まだベッドにいる杏菜が、パソコンの机を指さした。
「えーっと、ああ……」
とりあえずその辺にあったGパンを履き、適当なTシャツを着た。
慌てて玄関に向かう。
「ご、ごめん、この生ゴミ出しといて!11時までに出せばいいから!」
「うん〜♪いってらっしゃい〜〜♪」
杏菜のまだ寝ぼけた声を背中に聞いて、ボクはドアを閉めた。


普段は夜のシフトでバイトに入っているので、昼間の子に会うのは珍しい。
女子大に行っているというバイトの子に、休憩の時ボクは思い切って話しかけた。

「お、女の子ってどんなとこに旅行に行きたいのかなあ……」
女の子はちょっと驚いて、だけどすぐに笑顔になってくれた。
「筧(カケイ)さんって、彼女いるんですよね?」
「えっ……?」
(なんで知ってるの?)とボクが疑問を投げかける前に、バイトの彼女は答えてくれた。
「明石さんが言ってましたから」
「ああ……」
明石、っていうのはホストみたいなフリーターの奴だ。
前に杏菜がここへ来たとき、さんざんボクをバカにしてた。

「筧さんって優しいし、女の子から見たら、明石さんより全然いいですよね」

「へっ……???」
そんなことを言われたのは生まれて初めてだった。
ボクはどんな反応をしていいのか分からず、ただモジモジしてしまった。


バイトの女の子の一言でボクはすっかり舞い上がりながら、いつもより早い時間に部屋に戻った。
「杏菜……」
部屋にいなかったから、シャワーの方を見てみた。
「………」
ちょっとどこかへ出かけたのかもしれない。
一抹の不安を感じながら、ボクは携帯を開いた。
特に彼女からメールもない。
彼女に持ってもらっているボク名義の携帯へと、ボクは電話を掛けてみた。
「“電波の繋がらない場所にいるか、電源が……”」
機械的な音声が流れる。

「………杏菜」

携帯を握り締めながら、しばらく部屋で待ってみた。
その間も、何度も電話を鳴らしてみる。
いてもたってもいられなくなって、近くのコンビニまで行く。
彼女はいない。
部屋に先に帰っているかもしれないと、薄っすら期待しつつアパートの階段を上がる。
彼女は戻っていなかった。

「どこに行ったんだよ……」

手が震えて、夏だというのに寒くなってくる。
ボクは膝を抱えてベッドに座り、じっと玄関を見つめた。
時間だけが嫌味なほどゆっくりと過ぎ、それでも何事も起きなかった。
あのドアを開けて、杏菜が今にも入ってくるんじゃないかと思い、目をそらすことができない。

(杏菜……まさか……)

一睡もできないまま、一晩が過ぎた。
次の夜も、その次の夜も、杏菜は戻って来なかった。



いなくなってしまうと、そこにいた事の方が信じられくなるほど、
杏菜のいないボクの部屋は、普段のボクの日常そのものに思えた。
ただ彼女の残した服や日用品だけが、彼女の存在を裏付けてくれた。

何の前触れもなく、杏菜はいなくなってしまった。


そして1ヶ月が過ぎた。

 

 

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