ラバーズ(Lovers)

☆☆ 18 ☆☆

   

目の前にいる彼女の姿が信じられなくて、ボクは立ちすくんだ。
頭が真っ白になって、言葉が浮かばない。
何か言いたいのに、口が動かない。

目の前にいるのは、杏菜。


薄手の白いダウンジャケットを着て、相変わらず背が低い。
髪は前よりも短くなっていて、明るい茶色に染められていた。
ボクを見るその目は懐かしそうで、そして愛情に溢れているのを感じる。

いなくなってから、一瞬だって忘れたことのない彼女。
いや、出会ったときからずっと今の今まで、ボクは彼女のことばかり考えていた。


「………忘れちゃった?」

固まったまま動けないでいるボクに、彼女は言った。

「……………」

ボクは無言で首を振った。
何か言おうと、唾を飲み込んだその時、ボクの涙腺に熱いものがこみ上げてくる。
一言でも、言葉にしてしまうと泣いてしまいそうだった。

「……………」

どうにもならなくて、ただ、ボクは杏菜に手を伸ばした。
涙が堪えられない。
会いたくて会いたくて、本当に死んでもいいと思うぐらい会いたかった。
もう会えないと思っていた。
彼女に会うことを何よりも切望していたのに、それがかなうことは無いだろうと心の奥で恐れていた。
瞳の奥から咽喉、そして腹の底まで熱い。
しゃくりあげそうになるのを懸命に耐える。

「優哉………」

彼女がそっとボクに寄り添ってくる。
薄く伸ばしたボクの右手の中に、ちょこんと入り込んでくる。

「杏菜」

何も見えていなかった。
ここはコンビニの前で、道を歩く人からも店内の人からもきっと見られてる。
それでも、ボクは杏菜を抱きしめた。
眉間に皺をよせて、ぐっと目をつぶる。
号泣しそうだ。



ボクは何も言えないまま、とりあえずすぐそこの自分の部屋へ杏菜の手を引いた。
ドアを閉めた途端、張り詰めていたものがどっと肩から落ちる。

杏菜がボクの部屋にいる。
奇跡みたいなこの情景が、ボクの胸を締め付ける。

「杏菜……」

言いたいことは沢山あった。
靴は脱いだけれど、立ったまま、ボクは抑えきれない気持ちを堪える。
“会いたかった”と、ずっと忘れられなかったと、思いをぶつけたかった。
目の前の杏菜は相変わらず可愛らしくて、それどころかボクと一緒にいたときよりも可愛らしさがアップしたみたいだった。
短いダウンの下には上品なピンク色のスカートを履いていて、夏にこの部屋で過ごしていたダラダラとした雰囲気はなかった。

「なんで……」
ボクが言いかけると、杏菜が遮った。
「ごめんね」

“ごめん”なんて言葉は、ボクのマイナス思考に拍車をかけてしまう。
杏菜と久しぶりに会ったボクはすごくドキドキしていて、そして今、さらに緊張してしまう。
―― これが本当の別れになるんじゃないか。
そんな嫌な予感で、押しつぶされそうになる。

「黙っていなくなって、ごめんなさい」
「なんで……。何があったの?」

ボクは緊張しすぎて早口になる。
会えて嬉しいのに、会えなくなる恐れが体中を支配していた。

「家の人に見つかって……連れ戻された」
「………」
ボクは彼女を見つめるしかなかった。
杏菜の表情は深刻で、ボクの緊張感が更に高まっていく。
「連絡したかったのに……、できなくて…」
「………」
「………でも会いたくて」

彼女の口から出た台詞に、ボクは胸が熱くなる。
今更ながら、ボクにとっての杏菜の存在感の凄さを知る。

「……会いたかったよ」
小さい声でボクは言った。
堪えられなくて、涙が出てきた。
ひとたびあふれ出てしまうと、もう抑えられない。
ボクは鼻水を吸った。
それでも涙も、鼻水も止まらなかった。
「会いたかったよ」
格好悪かったけれど、仕方がない。


「会いたかったよ、すごく、 すごく……杏菜に……すごく……」


いつのまにか嗚咽していたボクを、杏菜は抱きしめてくれた。
「優哉……」
杏菜の優しい声。
ボクは彼女の温かさを感じた。
あんなに会いたくてたまらなかったのに、今杏菜がすぐそばにいるのに、二度と会えなくなるんじゃないかという不安ばかりだった。


ベッドに二人並んで腰をかけ、杏菜はボクが落ち着くまで黙って手を握っていてくれた。
「私もすごく会いたかった」
「杏菜……」
「ここに、今日来るの……すごく緊張した」
杏菜の表情からもそれはうかがえた。
「………」
「優哉にまた、迷惑かけるんじゃないかって」
「迷惑じゃないよ、ボクは……」

「うち、ややこしいんだ」

ポツリとつぶやく彼女の横顔を、ボクはじっと見た。

「最初は、本当に家を出たかったの……もうあの家に帰りたくなかった」
「………」
「ヤケになって…変な男に捕まって……結局そこからも逃げて」
「………」
ボクは黙って、ただ杏菜の話を聞いた。
「バカだよね……結局さ、甘かったの。何をやってもダメで。
私なんて、大人の駒になるばっかりで、…心から心配してくれる人なんて誰もいなかったんだ」
「……そんな、杏菜…」

「会えたのが優哉で、本当に良かった」

「…………」
微笑んでボクを見た杏菜に、胸が詰まる。
だけどその笑顔は、すぐに真剣な表情へと変わった。


「優哉の事が大好きなの」

「杏菜……」
(多分ボクはその何千倍も君のことが好きだ)
もう二度と離れたくないと、全身で思う。

「一緒にいたいの」
「ボ、ボクだって!……一緒にいたいよ、ずっと一緒にいたいよ、大好きだよ!」
「優哉……!」
杏菜にキスされた。

(ああ、この唇………)

猛烈に感激しながら、唐突に自分の中の欲情を自覚した。
興奮とともに、杏菜が確かにボクのそばに今いるのだと、改めて実感する。
やわらかい杏菜の唇は、何も変わってない。
そして幾度となく突然迫ってきたあの頃の彼女を思い出す。

「…………」
「…………」

まさかこんなに激しいキスを人生の中で経験するなんて、考えた事もなかった。
本気のディープキスなんて、かっこいい系の洋画の世界の作り事で、こんな事を現実にする人がいるっていうのも信じられなかったのに。
それぐらい、いやそれ以上のキスだった。
数ヶ月、数十日、千何時間、数万分、数百万秒、離れていた分、会いたかった分の深すぎるキス。
いつのまか抱きしめ合い、そしてボクはベッドに彼女を押し倒していた。

「優哉……優哉……」
杏菜の泣きそうな声がたまらない。
例えこのときが一瞬の刹那だとしても、過ぎ去ってしまうものだとしても、ボクはそれを無視して今、目の前の杏菜に集中したくなってくる。
「杏菜……」
もう何も考えまい、と腹を決めたその時、ボクの携帯電話が鳴った。
思わず二人ともビクっとなる。


「………」

不安そうに携帯電話を見る杏菜。
このタイミングでかかってきた不穏さに、ボクは恐る恐る携帯を取った。

『お前、今何やってんだよ!』
出た瞬間に怒鳴るこの声は……明石。
ボクは慌てて時計を見た。

(バイト、すっかり忘れてた………!!!!)

「ず、ずみまぜんっ」

さっきまで泣いていたせいで、すごい鼻声だった。
『……なんだよ、お前、……風邪か?』
明石の態度が変わる。
「今朝から体調が悪くて……」
それに同調することにした。
相当動揺していたせいもあり、ボクの声は十分におかしかった。
『お前、一人ぐらしだろー、大丈夫か?』
明石らしくない気遣いに、ボクはヤツの彼女に心底感謝した。
「今日……休ませてくださいって言っておいてもらえるかなあ……」
『……ったくしょうがねえなあ』
「本当にごめん……店長によろしく…」
『ああ、分かった……じゃあお大事にな!』
人って変われば変わるもんだと思いながら、ボクは電話を切った。

「ごめん……バイトだったんだね…」
「うん…、でもたまたま一旦部屋に戻ろうと思って帰ってきて……本当に帰って来て良かった」
「うん」
杏菜がベッドから体を起こす。
ボクに半分襲い掛かられていたせいで、上着がぐちゃぐちゃになっていた。

「………」

明石からの電話で、ボクはちょっと冷静になった。
聞きたくて、聞くのが怖くて言えなかったことを言わなくてはいけない。
バイト開始の時間は過ぎていて、もう夜になりかけていた。

「行かないでよ…」

「優哉……」
「もう、どこにも行かないでよ。会えなくなるの、イヤだよ」
もっとマシな言い方があるだろうと心の片隅で思いながら、こんな風にしか言えなかった。
これじゃあ駄々をこねる子どもと一緒だ。

「一緒にいたいんだよ……」
また離れることを想像して、治まっていた涙がまた溢れてくる。
「杏菜がいないと、生きていけないよ…」
ボクは涙をぬぐった。
泣いてばかりで情けないと思う。
それでも杏菜と離れていた間、この何十倍もボクは一人で泣いている。

「嬉しい……優哉……」

杏菜がまたボクに寄り添ってくれる。
さっきみたいに、子どもをなだめるように背中に腕を回してくれた。
「私も優哉がいないと生きていけないよ…」
「………ひっく」
思わずしゃくりあげてしまう。
杏菜を見ると、彼女もまた泣いていた。

「優哉……私……ここにいてもいいの?」

上目遣いでボクを見る彼女に、ボクは激しくうなづいた。
「どこにもいかないで……ずっといてよ……」
ボクはティッシュに手を伸ばした。
彼女から少し離れて、ボクらは見詰め合う。


「優哉……私のお願い聞いてもらえる?」

「うん」
わけも分からずボクは頷いた。
「本当に、……いいの?」
「杏菜のためなら、何でもする」
我ながらすごい事を言ったと思った。
杏菜はちょっと笑いながら、ボクに手を伸ばした。

「じゃあ、私を迎えに来て」

その言葉に、ボクは満月の夜にロープを滑って城へ忍び込む騎士の姿を想像してしまった。
「迎えに、って……」
ボクの頭の中では、完全に姫をさらうモードになっている。
まさかね。
「優哉が私を連れ出してくれたら…」
「うん」
「私はもう家には帰れないけど……それでもいいの?」
「…うん」
何だか分からないけれど、もう杏菜を離したくなかった。
杏菜のそばにいたいと、ここにいて欲しいと、それしか考えられなかった。

「私なんかで、いいの?優哉?」

「あ、杏菜こそ、ボクなんかで………いいの?」

今日初めて現実的な事を言ったと思った。
杏菜はやっぱり可愛かった。それもすごく。
それに今日はすごくお嬢様っぽかった。
こんな女の子が、ボクにこんな風に言ってくれている。
どう贔屓目に見ても、杏菜にはボクは勿体なかった。


「優哉じゃなきゃ、ダメだよ。他の誰かじゃ、ダメなの」

「……」
夢を見ているみたいだった。
杏菜といる時間は、いつもそんな風に思っていた。
だけど彼女がいない時間は、夢が覚めたというには重すぎた。

「杏菜………」

気の利いた事も言えない。
大好きだという言葉も、好きすぎてもうボクの気持ちに当てはまらない気がした。
ただ彼女の名前が、一番尊い響きでこの部屋の空気を揺らす。
ボクの気持ちを震わせる。
ボクはもう彼女を知らない頃の自分には戻れない。



彼女の家の住所を初めて聞いた。
そして杏菜のフルネームも。
3日後に迎えに行くという約束をして、杏菜はボクの部屋から自分の本当の家へ帰って行った。
杏菜がここへ帰ってくる。
唐突な展開にボクは戸惑ったけれど、もう気持ちは決まっていた。

もう会えないと思っていた彼女と、また会えた。

ボクにとってそれは奇跡以外の何でもない。

彼女との出会いそのものが奇跡なら、これからのボクの人生は杏菜のためだけにあってもいいと思った。
それがボクの生きる意味だ。
愛しくてたまらないこの感情がボクの中にある事が何よりも大切で、
それがボクにある限り、ボクは強くなれると思った。
そしてその気持ちを離すつもりはなかった。絶対に。



杏菜と会った2日後、彼女からボク宛に衣類の入ったダンボールが送られてきた。
それを見て、ボクの気持ちは勝手に盛り上がってくる。
迎えに来てと言われて、姫をさらう騎士をイメージしていたけれど、杏菜には「普通に呼び鈴押して入ってきてね」と言われていたので、それはそれで緊張していた。
杏菜の親に挨拶をするのかと聞いたら、親は出てこないという事だった。
彼女が言いたがらないので、ボクもあまり深く聞けなかったし、何よりも彼女を取り戻せるということで舞い上がっていた。
細かいディテールなんて、その時のボクは本当にどうでも良かった。

ただ、夢が覚めないうちに……杏菜がそこにいてくれているうちに、
ちゃんとここへ帰ってきてくれるまで、ボクは半信半疑だった。


その日はあっという間にきた。
城へさらいに行くというボクの想像は、あながち間違っていなかった。

 

 

ラブで抱きしめよう
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