ラバーズ(Lovers)

☆☆ 19 ☆☆

   

杏菜に聞いた住所のメモを持って、電車を降りてボクはその場所を徒歩で探す。
ドキドキしながら、ボクはしばらく彼女の自宅があるであろう付近をウロウロした。
(わからないなあ…)
しかしボクは自力で探すことをあきらめて、誰かに聞くことにした。

「本当にここに行くの?」
50は過ぎていそうなタバコ屋のおばちゃんは、ボクとメモを見比べて何度もそう言う。
「はい…ありがとうございました」
ボクは会釈して、その店を出た。

(なんなんだ、今の反応……)

杏菜の自宅は、すぐそこだった。
ボクは彼女の家の周りをグルグルまわっていただけだった。

「ええ……」

おばちゃんの懸念はすぐに理解できた。
そびえたつ黒い門に圧倒される。
家の様子が見えない高い塀。
「家」というより、屋敷だった。
「こ、ここ……??」
ただでさえ緊張してきたというのに、この屋敷を前にボクの緊張はさらに高まっていく。

(でも、行かなきゃ…)
裏口から入ってと、彼女は言っていた。
(う、裏口って…どこだぁ??)
メモを手に門の前でしばらく立ち止まっていると、黒い服を着た厳つい男がボクの肩を叩く。
「何かここに御用ですか?」
風貌とは裏腹の優しい声のトーン。
それでもボクは完全にビビっていた。
だけどハラは決まっている。

「杏菜さんに言われて……、う、裏口ってどこですか?」

ボクは男を直視できなかった。
隣に立たれているだけで、猛烈な威圧感だ。
何も悪いことはしていないのに、ボクは無意識に背中をまるめ体を小さくしていた。

「筧さんですか?」
「ハ、ハイッ」

唐突に名前を呼ばれて、返事をしたボクの声は裏返る。
「お待ちしておりました。こちらへ…」
男に案内されて、門からかなり離れた裏口へ回った。
腰をかがめないと入れない小さな入り口をくぐり、ボクは中へ入る。

「う、うわ……」

入るとすぐに入り口の横に別の男が二人いた。
両方とも黒いスーツを着ている。
(な、なんなんだこの家……)
否定しようもなく、ボクの頭の裏側で『極道』という二文字が旋回する。
杏菜を連れ出す事も一瞬忘れて、ボクの日常とは程遠い世界に足を踏み入れた事に対する恐ろしさに震えそうになった。

恐ろしく頑丈そうなドアから、屋敷に入る。
今更ながらに気づいた事だが、いたるところに監視カメラがあった。
ホテルの入り口のようなそこを通り抜け、ボクは靴のまま男について進んで行く。
「こちらへ」
促されて一人、部屋に入る。
廊下の向こうで男が待つ気配がした。
「………」
ボクはあらためて室内を見回す。
軽く20畳以上、いやその倍はあるであろうその部屋は、片側が全面窓になっている。
和風の中庭が一望できるのに、この室内は完全に洋風だ。
調度品の全てが成金風で、幾つか置かれているソファーに座るのも気が引けた。
統一感のない空間。
『家庭』を感じさせるものは何一つなかった。

「優哉!」

杏菜の声で、急に現実に引き戻された。
奥のドアから入ってきた杏菜を見て、ボクは心底ほっとする。
「杏菜!……こ、ここって…」
ボクは恐る恐る室内を移動した。
ドア口の付近で、固まったまま立ちすくしていたのだ。

「私のうち……変でしょう?」
そう言ってちょっと困った顔をした。
杏菜はボクの知っている雰囲気に戻っていて、冬なのに短いスカートに素足で、ニットのレッグウォーマーをしていた。
そんな彼女を見るとやっぱりボクは安心する。
「なんか、途中男の人が何人もいたけど…」
「うーん、防犯?っていうか逆にウザいよねー」
杏菜はボクの手を取った。
そして嬉しそうにこちらを見つめてくる。

「優哉……来てくれてありがとう。本当に。信じられない」

ジワジワと涙ぐんでくる杏菜の瞳を見ていると、ボクも再会に胸が熱くなってくる。
どんな場所にいようと、ボクの杏菜に対する気持ちは変わらないんだと実感する。
どんな状況になろうとも。
ボクは杏菜を愛してるんだ。

「あんな……」
「あなたが杏菜の彼氏?」
ボクの言葉は唐突に遮られる。
杏菜が入ってきたドアから、眼鏡をかけた30ぐらいの女性が入ってきた。
こんなボクですら一目で分かるほど、高級そうなスーツを着ていた。

「あ……ハイ、い、一応そうです」

こんな時までボクは自信がない。
キツイ目をしたその女は、ボクを上から下まで観察し、見下したような自嘲的な笑いを浮かべた。

「幾つなの?」
「に…21です」
「学生なんですって?」
「ハ、ハイ…」
「ふうん、どこの大学なの?」
「え、えっと…」
尋問されるみたいだと思いつつ、ボクはオドオドと答えた。

「姉さん!」

杏菜の一言で、女が彼女の姉だというのを初めて知る。

「杏菜のどこがいいのかしらね?」
女は杏菜にも見下した視線を送ると、部屋の真ん中に置かれたソファーに腰を下ろした。
目でボクたちにも座るように促す。
(感じ悪い人だなあ…)
杏菜とは似ても似つかなかった。
というか、本当に似ているところがない。
眼鏡越しのその顔を正面から改めて見ると、かなりの美人のようだ。
それでもその表情と態度が、全てを台無しにしている。

「筧さん……だったかしらね」
「はい」
ボクの横に、杏菜は寄り添うように座っていた。
彼女もボクと同じように、『姉さん』に対していい印象を持っていないようだった。

「杏菜をもらってくれるんでしょう?」
「ハ……ハイ」
(『もらう』って、モノじゃないんだから…)
ボクはそう思ったが、一方で彼女の姉さんにそう言われて改めて事の重大さを認識した。

「『うち』の事は、杏菜から聞いているの?」
「……」
ボクは杏菜を見た。
彼女は困った顔をしている。
「……いえ…、何も…」
ボクは素直にそう答えた。
「結構」
『姉さん』は、満足そうにうなづいた。
携帯電話を手にし少し弄ると、そばに置かれていた書類を開き始める。

ほどなく、飲み物が運ばれてきた。
お手伝いさんなんて、実際に見るのは初めてだった。
コーヒーが注がれている食器もいかにも相当に高級そうで、ボクは怖くて手が出せない。
…本当に別世界だ。
(こ、この家って……)
色んな疑問があった。
聞いてみたいという気持ちは勿論あるが、知らない方がいいんじゃないかと本能的に感じた。
杏菜はさっきから黙ったままで、おとなしくしている。
威圧的な姉さんとは大違いだ。


「これ」
『姉さん』が出した書類を、ボクは流れで何気なく受け取る。

「え……ええっ?!!」

ボクは驚愕した。
なんと、婚姻届だったのだ。
杏菜の名前は書き込まれていて、承認欄にも既に見知らぬ名前が署名されていた。
「ここここ、これって……」
ボクは杏菜を見た。
「ごめん、…黙ってて……言ったら……優哉に断られるかもって思って…」
杏菜の声は小さかった。
不安そうな彼女。
だけどボクは寝耳に水で、『ケッコン』なんて、実は想像もしたことがなかった。


「杏菜?筧さんに承諾してもらったんじゃなかったの?」
思い切り非難する声で、『姉さん』は杏菜を睨んだ。
「………」
杏菜は泣きそうになっている。
彼女のいなかった日々が、一瞬にしてボクの脳裏にフラッシュバックした。
「いえ、承諾してます!」
ボクは強く言い切った。

「そう、…なら、いいのよ」
『姉さん』の愛想笑いが怖かった。
「それを持って帰って、今日中に提出して頂戴ね」
(き……今日中??)
奥のドアから、男が出てくる。
今度の男はサラリーマン風で、今まで登場した男たちのように真っ黒いスーツではなかった。
「これ…うちの弁護士。提出まで立ち合わせてもらうから」
有無を言わせない強い口調だった。

何が何だか分からないまま、ボクは婚姻届を手に『姉さん』の前でオロオロするばかりだった。
「筧さん」
「ハッ、ハイ!」
思わず背筋が伸びた。
この人には取って食われそうな気がした。
「この子は、もう正式に『うち』とは縁を切りますから」
「………」
「お荷物だったのよ」
(そ、そんな言い方って…)
ボクは喉まで出た。

「あなたも」
『姉さん』は強い目で、ボクを見た。
その眼力に、初めてボクは杏菜と『姉さん』の共通点を感じた。

「当家とは、金輪際一切の関係はない……よろしいですわね?」


「は……はい…」

うなづくしかないだろう。
ビックリはしたが、ボクにとって杏菜が側にいてくれる以上の幸せなんてない。
彼女と結婚できるなんて、本当は飛び上がりたいぐらいの嬉しい事だ。
だけど『結婚させられてる』みたいな重苦しいこの状況じゃ、大喜びできるわけもなかった。
この家のことだって、本当は色々知りたいけれど、この『姉』にはとても聞けない。

『姉さん』は震える携帯電話をチラリと見ると、再びこちらに愛想笑いを向けた。


「では、私はこれで…」
『姉さん』は立ち上がる。
ボクらもつられて腰を上げた。


「じゃあ、杏菜をくれぐれもよろしくお願いしますね」

そう言ってボクを見、そして杏菜に向けた時の視線は今日一番人間的なものだった。




「ごめんね……優哉」

用意されていた車で、ボクらはボクの部屋へと向かった。
「ううん……っていうか……こ、こんなんでいいのかな?」
婚姻届には本当に驚いたけれど、家族が結婚するというのにあの送り出し方って、アリなんだろうか。
余りにも寂しすぎる。
「うち、普通じゃないから」
「………」
「それより優哉…、優哉は、納得してる?」
「……」
「その……こんな風に……その…」
「ボクはいいけど」
ボクはキッパリと言い切った。
この気持ちだけは、はっきりしている。

「とりあえず、…後で色々と、ちゃんと聞かせてね」
ボクは言った。
杏菜はうなづく。

ボクの隣で小さくなっている彼女は普通の女の子だ。
さっきまで非現実的な世界にいたし、今だって高級外車で送られているけれども。
隣にいるのは、ボクの彼女で、大切な大切な、ボクの杏菜だ。

「ボクの家族と一緒にさ」
「?」
「ちゃんと結婚式しようね」
考える前に言葉にしていた。
言ってから、杏菜のウエディングドレス姿を想像した。
「なんかこのままじゃ、『仕方なく結婚させられる』みたいじゃん、ボクたち」
「優哉…」

恥ずかしかったけれど、でも、これだけは言っておきたかった。
どうしても。
ボクだって男だ。


「結婚してください……ボクと」


ボクは杏菜の耳元で言った。
小さな声だったけれど、ちゃんと言ったつもりだ。

「うん………ん……」
杏菜の顔が一瞬にして涙でいっぱいになる。
ボクの首に回された腕にギュっと力が入って、ボクも杏菜を抱きしめ返した。

「…………」

ボクらはキスした。
すぐ前で、知らない男が車を運転していても。
その隣には、『弁護士』と名乗る見知らぬ男がいても。


部屋に着くまで、ボクたちはずっとキスをした。

 

 

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