ラバーズ(Lovers)

☆☆ 6 ☆☆

   

私は理由あって、家を飛び出した。
だけど今考えればその理由なんてその後に経験することに比べたら、どうってことなかったような気がする。

……甘かったんだと思う。

一歩踏み出したその足元が崩れて、転げ落ちていくのはあっという間だった。


家を出たその日に、私に声をかけてきた男。
一見親切そうに見えたその男に、私はその夜のうちに処女を奪われた。
奪われたといっても、別に強姦されたわけじゃない。
私は自暴自棄になっていたし、その男は優しくてそしていい男だったから、自分自身が彼とそうなったことに対しての後悔はなかった。
だけど、その後がひどかった。

男は女の扱いに慣れていた。
今思えば、プロだったのだと思う。
処女でなくなってからわずか3日で、私はその男からセックスでの快楽をイヤというほど教え込まれた。
そして4日目には、風俗で働くように仕組まれていたのだ。
行く宛てもない私は、男に言われるがまま店に出た。
いわゆる本番をするところではなかったけれど、私は見知らぬ男達のモノを触り、口に入れたりしなければならなかった。
そして自分自身まで見られたり触られたり、された。
それは本当に屈辱的な事だった。
夜になると何度か私を拾ったあの男が様子を見に来た。
私はその度に、その男に何度も強制的に快楽を流し込まれたのだ。

仕事について1週間も過ぎた頃、自分自身がこの生活から抜けられなくなるという恐怖感に襲われた。
男のカバンの中に薬を見つけた時、私は心底怖くなった。
何もしなくても狂いそうになるほどの快感を与えられるのに、こんなことをされたら私は本当に廃人になるだろうと思った。
そして、自分自身がとんでもない世界に足を踏み入れてしまったことを思い知った。

――― その次の夜、私は逃げた。





寝息が聞こえる。
何か声を出しながら、優哉は私の足元よりももっと下、ベッドではなくて床に布団を敷いて眠っていた。
先日彼に言われた事を思い出す。

“そういう事って、好きな人としないと!…『別に』…なんて、そういうのちょっと変だよ!”


あの優哉の言葉は、正直胸が痛かった。

それなのに…優哉が私とエッチしたくないみたいだったから、私は小さなプライドのためにムキになって彼に迫った。
そして、フェラチオしてしまった。

(……怒ったのかな…)

私はベッドから体を起こして、床に布団をひいて眠っている優哉を見た。
彼は気持ち良さそうに眠っていた。
(…口でしちゃったこと、確実に嫌がってたような気はしたんだけど…)
嫌がっていたからこそ、こうして今 私と一緒のベッドで眠らないでいるんだと思う。


『やって当然』みたいな初体験をしてから、騙されるように風俗の仕事をさせられて不特定多数の男と接し、私は「男ってこんなもんなんだ」と冷めた気持ちを抱いていた。
男がセックスに快楽を求めてしまうという衝動を、初めての男が上手すぎたせいで私自身も理解できる面もあった。

ただ、単純に快楽を求める…。
セックスなんてホントに、そんなもんだろうって思ってた。

(だけど、優哉は違う…)
彼の一言が、私の中で重さを増していく。
「好きな人とする、エッチかあ……」
私はため息をついた。

「どんななんだろ」

(優哉は、私のことが好きじゃないのかな……)
彼のことはよく分からなかった。
ただ、すごくマジメな人だっていうことは確かだ。
そして、一緒にいるととても落ち着いた。
―― 私は彼の側にいると、よく眠れた。



私が目を覚ました時、彼は既に出かけていた。
布団があるせいでパソコン机にギリギリに寄せてある小さな白いテーブルの上に、メモが置いてあった。
『今日もバイトで遅くなるよ』
慌てて走り書きしたような字に、私は思わず笑みが漏れる。
(いい人なんだよね……)
彼が抜け出ていった形のままの布団を、私は畳んだ。
狭い部屋だから、畳んでも布団はかなりのスペースを占拠した。

(とりあえず、優哉が喜んでくれるようなことをしたいな)

男の人が喜んでくれることを短絡的に考えて、いきなりフェラした自分を今はすごく恥ずかしいと思う。
強引に私を求めてくるなんてそんな事、いつも隣にいても優哉は絶対にしなかったのに。
…私は彼のことを全然分かっていない。

(何をしたら喜んでくれるかなあ…)
ご飯を作ってあげる、っていうのは彼を喜ばすのにすごくいい方法だと思う。
(だけど…それじゃあ普通過ぎるし…)
色々考えても、これといった策は浮かばなかった。

私は視線をパソコンへ向けた。
散らかった部屋の中で、この机だけが綺麗に整頓されていた。
カスタマイズされたパソコンのラックに、きちんとアニメのフィギアが並べられている。
その右、入り口に近い方にある本棚も、多分彼のルールで整理されているに違いなかった。
アニメの本や漫画、それに埋もれるように法律の本が何冊かあった。
その下の方には無造作にDVDやゲームソフトなどが積まれていた。
特にパソコンの周りには『触らないで欲しいオーラ』を感じて、私は手が出ない。
優哉はいわゆる秋葉系、ってやつなのかもと私は思う。
私はまじまじと優哉の趣味で固められたこの場所を見た。
(この辺り……)

“もしかして、優哉の好きな子って………この辺りに、いたりする?”

昨日、彼に問い掛けた自分の台詞を思い出す。
私はてっきり優哉の言っている『好き』は、この趣味のキャラクターの中の(要するに二次元)女の子なのかと思った。
(もしかして、好きな子、本当にいるのかなあ…)
指先で、自分の頬を撫でる。
(私、だったりして)
まさか、と思いつい笑ってしまう。
彼はエッチは好きな子としたいと言っていて、そして私の誘惑を拒否している。


特にすることもないので、私は電車に乗って街に出た。
人込みに出ると、いつもドキドキしてしまう。
自分の知っている人に、会わなければいいと思う。
あの男にはもちろんだったし、それから自分の家族にも会いたくなかった。
わざわざ渋谷まで出て、人の多い場所のキャッシュディスペンサーでお金をおろす。
このキャッシュカードが私の生命線だった。
経済的には裕福な家で過ごしていた私は、こんな時のためにと密かに口座を作っていたのだ。
お金に困っていたわけではないのに、風俗で働かされた少し前の自分を本気でバカだと思う。
あの男から逃げたあの夜だって、すぐにお金を下ろせばよかったのに。
ドキドキして頭の中がパニックで、滅茶苦茶に電車を乗り継いだ先で真っ白なまま歩いていたら、偶然優哉に出会った。
出会ったのが優哉で、本当に良かった。
もし、性質の悪い人だったら、また同じ事を繰り返す羽目になっていたかもしれない。

とりあえず3万下ろして、渋谷を後にする。
街をウロウロするのが怖くて、私はその足で真直ぐに優哉のバイト先へと向かった。

受付には優哉はいなかった。
優哉を呼んでもらえるように伝言すると、バイトの子にジロジロと見られた。
カウンターから見える席についてしばらくすると、優哉が私のところへ来てくれた。
「バイト終わるまで、あと2時間ぐらいあるけど…」
「いいよ。本がたっぷりあるし。ゆっくりするから」

(髪の毛とか切ったら、絶対もっと若返るのに……)
仕事に戻る彼の後姿を見ながら、私はそう思った。
別に優哉が老けてるとかそういうわけじゃなかったけれど、『若々しさ』みたいな感じは絶対なかった。
度の強そうな厚い眼鏡を、もっとフレームの薄いのに変えればいいのにとも思う。
(結構、垢抜けたら…そこそこいい感じになると思うんだけどなあ…)
太ってないから洋服も色々着れそうだし。
私は彼を変身させる事を想像して、ちょっとワクワクした。

(優哉は何をしたら喜んでくれるかなあ…)

優哉のバイトが終わる間、私は彼に気付かれないように彼をチラチラ見ては、考えていた。
最近の私は、いつもそればかり考えているような気がする。


「おつかれさま♪」

店を出るのも待たずに、私はすぐに彼へ腕を回した。
外見じゃなくて、何て言うか…優哉の雰囲気が私は好きだった。
服装はどうみてもオタクっぽかったし、それにちょっと挙動不審っぽいところもあるし、今の彼を見て「格好いい」なんて言う人は多分いないと思う。
それでも私は彼のことを気に入っていた。
私にとっての優哉は ただ『優哉』であって、誰かの評価なんて全然意味がない。

「………」
私に腕を掴まれて歩く時、彼はいつも困ったように体を固まらせる。
もしかしたらこういうことされる自体、彼は好きじゃないのかもしれない。
(やっぱり、別に好きな子いたりして……)
昨日、勢いで『出て行こうか』なんて言っちゃったけど、本当に追い出されたら私は行くところがなかった。
彼の側以上に、今の自分が安心できるところなんてありそうもない。

私が居候していること、優哉は迷惑じゃないんだろうか。
本当に、…迷惑じゃないんだろうか。


「ねえ、優哉……」
「……?」

駅の改札を抜けて彼の部屋に向かう深夜の道を二人で歩きながら、私は彼を掴んでいた腕を離した。
「二人で、昼間…どこかでゆっくりしたいね」
「………」
「優哉ともっと話したい…」
「……杏菜」
優哉に名前を呼ばれると、なぜかドキドキした。
時々しか言われないからなんだろうけど、どうしてだか心臓が鳴ってしまう。
「優哉、いつも忙しいから…」
「………そ、そう言われれば、そうかも…」
優哉はナップザックを掴んで背負いなおした。
話す時は私の方を見てほしいのに、彼は時々しかこっちを見ない。
見てほしいから、腕を離したのに。


“君がここからいなくなったら………ボクは”

あの言葉の続きは、何だったんだろう。
優哉は…。

(どうしたら、彼に喜んでもらえるんだろう…)

部屋で二人きりになってもたいした会話もしないうちに、彼は床に敷いた自分の布団に入ってしまった。
毎日朝早くから学校に行って深夜までアルバイトをしているから、多分すごく疲れているんだと思う。
すぐに優哉は眠ってしまった。
眼鏡を外した彼の寝顔に、やっと年相応の若さが戻る。
私はじっと彼を見た。
全然、嫌いなタイプじゃない。
(優哉は、何を思ってるんだろう……)


(何か、してあげたいのに………彼の本当に喜ぶことを…)

そんなことばかり、一日中考えていた。
…一日中、優哉のことばかり、考えていた。

 

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