ラバーズ(Lovers)

☆☆ 7 ☆☆

   

杏菜と別々に眠るようになってから、1週間が過ぎようとしていた。
正直言って、一緒にベッドに入っていた頃よりも熟睡できる。
『眠れる』ということは、この生活にもかなり慣れてきたってことだと思う。

ボクは相変わらず学校が終わるとアルバイトへ直行する毎日で、時々バイト先に彼女が来る時もあったけれど、実際はほとんど彼女とゆっくり過ごす時間はなかった。
今日もバイトが終わり、深夜の街を抜けてボクは自室へと戻る。

「おかえりぃ〜〜」

彼女はテーブルに両手をつき膝を立て体育座りをしたままの姿勢でボクを見ると、にっこりと笑った。
右手にマニキュアを持って、左手を伸ばしていた。
相変わらずキャミソールに短いパンツを履いていて、『彼氏』でもない男と二人きりだというのに露出全開だ。
夜なのに、確かに部屋はむっと暑い。
古いせいで効かないエアコンは消したまま、部屋の隅で扇風機が静かに首を振っている。

「ただいま…」
ボクは靴を脱いで上がると、無意味に重い自分のバッグを床に置いた。
彼女は視線を自分の指先へと戻す。
「優哉もホントにお疲れ様〜〜。今日、ほんとに暑かったよねー」
それは独り言みたいな言い方だった。

いまやボクの日常の中に、しっかりと彼女は存在していた。
そして時を増すに連れて、ボクの世界へと浸透してくる。

…当たり前みたいにそこにいる彼女が、愛しくてたまらなくなる時がある。


「シャワー浴びてくる…」
「いってらっしゃーい」
背中に彼女の声を聞きながら、逃げるように風呂場へと向かう。
ボクは、部屋で彼女のことを注視することができなかった。
いつも彼女を避けるように視線をそらしていた。
見つめてしまうと、杏菜の可愛さに気付いてしまう。
そして嫌がおうにも、二人きりでいるという事を実感してしまう。
ボクは同居しているにも関わらず、彼女と一緒に住んでいるという事を考えないようにしていた。
「はー…」
蛇口をひねり、汗だくの体を流していく。
狭いボクの部屋で、唯一彼女と別々にいられる空間は風呂とトイレだけだ。
いつもここに来ると、ボクは一瞬肩の力が抜ける。
意識している時もあるけれど無意識でも、彼女と一緒にいるとボクはとても緊張してしまうのだ。

「ふー…」
一通り着替えて風呂場を出ると、緊張でまた背中に力が入る。
ボクは濡れた髪をクシャクシャにしたまま、タオルで半分顔を隠して部屋に戻った。
テーブルは隅に寄せてあって、ボクの布団を彼女が既に敷いてくれていた。
こういう事もすごく嬉しくて、毎日の事なのに今夜もボクはジーンとしてしまう。

―― 明日は土曜だ。
珍しくアルバイトを入れていなかったし、授業もない。
だけどそれを改めて彼女に言うのが気恥ずかしくて、とうとう言い出せないままに日付が変わってしまいそうだ。
考えてみれば、一日中彼女と過ごしたっていうのは最初の頃だけだ。
杏菜を好きだとハッキリと自覚してしまってからは、ボクは何となく彼女との時間を避けていた。

「明日、何時に起きるのー?」
ベッドの縁に腰掛けた彼女がボクに言う。
「…決めてないけど……」
ボクは布団の真ん中に座り、顔を隠すように髪を拭いた。
「バイトは?」
「ないよ…」
彼女の方から聞いてくれて助かったと、ボクは思う。

「もしかして、1日中ヒマなの?」

「うん……まあ」

ボクが曖昧に頷くと、彼女はすぐに続けて言った。
「珍しいね!じゃあさーーー、たまにはどこか行こうよ!ね?」
「……うん…」
タオルを膝に置いて、ボクはロボットみたいにスローな動きで彼女の方をちょっとだけ見た。

(う……っ)

少し目が合っただけの彼女の表情は明るくて、すごく笑顔だった。
こんな風に見られていたっていうだけで、ボクは恥ずかしくてここから走って逃げたくなってくる。
でも逃げられないから、またタオルを握り締めて本当に出てきた汗を拭いた。

「せっかくの優哉のお休みなんだから、どこか行きたいとこってないの?」
「うーん……」
久しぶりにオタク系のウインドーショッピングがしたいと思ったが、彼女を連れて落ち着いて見て回れるワケなんてなかった。
(うーん……行きたいところかあ…)
杏菜と一緒に出かける場所なんて、全然浮かばなかった。
「……あ、…杏菜の行きたい場所に行こう」
彼女の名前を呼ぶのは恥ずかしかったが、自分でもうまい事言えたと思った。
自分の責任を回避しつつ、彼女に主導権を決定付けられた。
「えー?私の行きたいところーー??…うーーん」
素直に杏菜は考え始めてくれた。

一緒にいて気が付いたけれど、わがままに見えてしまいがちな彼女の性格も、本当はとても素直で純粋だと思う。
彼女に反論されたりキレられたりって一度もなかったし、何よりもこんなボクの事を絶対にバカにしないっていうのがすごい。
そしてこんなボクに対して彼女は、すごくすごく優しかった。
(やばいよなあ……ああ…)
ボクは自分の心と彼女との間に壁を作っていないと、なんだか変な風に勘違いしていしまいそうだった。



翌日、ボクは日々の疲れで昼前まで眠ってしまった。
「……もうこんな時間?」
目覚めて驚いてしまう。
「優哉、疲れてるんだよー…。平日のアルバイト、少し減らせば?」
彼女は隅に寄せたままのテーブルの端で、雑誌を広げていた。

「ああ……ごめん、おはよう…」
ボクはまだ頭がぼんやりしていて、ノロノロと布団から起き上がった。
普段は大体ボクの方が早く起きていたから、こんな風に寝起きをじっと彼女に見られるのはとても恥ずかしい。
「いいよ、眠かったらもっと寝て」
ボクに向けられた彼女の笑みがとても優しくて、一気にドキドキしてしまう。
(ああ……天使だ……)
杏菜がボクの部屋にいてくれるだけで、ボクは幸せで再起不能になりそうだった。


とりあえず昼食は外でしようということで、早々に準備を済ませてボクたちは部屋を出た。
「どこに行くか、決めた?」
「うん……。何となくね」
ニコっと笑う杏菜。
派手な柄が入った露出の多いワンピースも、童顔で背の低い彼女が着るととても可愛らしくみえる。

駅へと続く近道を、ボクは進んだ。
夜中は暗いからこちらを歩くことは無かったが、昼間なら何でもない住宅街の路地だ。
「……とりあえず、電車に乗るね」
そう言って、彼女はいつものようにボクに腕を回してくる。
こうしているボクたちは、毎度ながらにどう見ても恋人同士だ。
そして何度こうされても、ボクは毎回初めてそうされたように緊張してドキドキする。

路地の階段は急で、彼女の手がギュっとボクの腕を掴んだ。
「大丈…」
ヒールの高い華奢なサンダルを履いた彼女が気になって、ボクが杏菜に体を向けたその時だ。

「きゃっ!」

ヒールが階段のどこかに引っ掛かったようだった。
バランスを崩した杏菜の体重が、ボクの左腕をおかしな方向に引っ張る。
ボクはとっさに彼女を抱え込むように、右手を杏菜へと伸ばした。

「うっ……!」

ボクは彼女を抱きしめて、背中から転んだ。
(いてて……)
階段が残り僅かだったのが不幸中の幸いだったと思う。
それでも体重が二人分かかった背中は、ずんと痛かった。
「…杏菜、大丈夫?」
完全に彼女の体の下になっていたボクは、ボクの上にいる杏菜を抱き起こした。

「ん……大丈夫……」
放心していた杏菜はボクと目が合うと、ハっとして言った。
「……ごめん!優哉こそ、大丈夫っ?…大丈夫?」
彼女は慌てて立ち上がると、おぼつかない足どりながらもボクを引っ張って起こそうとしてくれた。
「…平気だよ。……ケガしなかった?」
ボクは自分で立ち上がった。
無意識に彼女の手を掴んでいた。
「私は大丈夫だけど……優哉は…?……あっ!!」
「えっ?」
杏菜の声で、彼女を握っていた手をボクは離した。
「優哉……」
顔面蒼白な彼女の視線の先、自分の肘をボクは見た。

「あ……」

右手の肘から肩にかけて、結構な広範囲で擦り剥けていた。
おまけに血がどんどん滲んできて、半袖のTシャツにも血が付いていた。

「大変!大変!」

ボクのケガを見て、杏菜の方が軽くパニック状態だった。
彼女に急かされるまま、ボクたちは慌てて部屋へと引き返した。


何かで押さえていないとポタポタと垂れてしまうほどボクの腕からは血が出ていた。
薬局に寄ってから部屋に戻り、大急ぎで杏菜がボクの手当てをしてくれた。
「ごめんね、ごめん……」
何度もそう言いながら、自分が痛いみたいに彼女は顔をしかめた。
「大丈夫だよ、出血してるほど痛くないし…」
こんな風にケガをしたのは子どもの頃以来だ。
腕は痛みでじんじんしていたが、耐えられないというほどではなかった。
「ごめん、私のせいで……ごめん…」
彼女はガーゼを器用にテーピングしてくれた。
「包帯した方がいいかな…」
買ってきたビニール袋の中をごそごそしながら、杏菜は言った。
「いいよ…。暑いし。これで充分だよ……。…ありがとう」
彼女があまりにも辛そうな顔をしているから、ボクの方が恐縮してしまう。

「ごめんね……優哉」

「杏菜こそ、…どこか痛くない?」

ボクの言葉で、杏菜の目が潤んだ。
「……優哉」
「………」
「せっかくのお休みだったのに……ごめんなさい」
「いいよ……ケガは大丈夫だし……そんなに謝らなくても…」

「ごめん……ほんとにごめんね……」
「杏菜がケガしなくて良かったよ」
しょんぼりしている杏菜を見かねて、ボクはボクのできる限りの愛想を込めて微笑んだ。


「優哉………」

ポロっと杏菜の瞳から涙が零れた。
その涙に、ボクはびっくりしてしまう。
(な、なんで彼女が泣くんだ……???)
こんな状況に心底戸惑ってしまう。

「ええっと……その、あの…、…ホントにボクは大丈夫だし…。
あの……な、な、…泣かないで…
そんな、泣くほどの大事じゃないし…ええっと、その…何て言うか……」


「優哉」

ネコみたいな声だ、とボクは思った。
それと同時に、頭が真っ白になる。

(…………………)



…………唇が、柔らかい。

…いや、…唇に、柔らかいものが…

その柔らかいものが、唇なわけで……


(…………………なんだこれ、夢か…?)

ケガの痛みも、吹っ飛んだ。
これは現実なのだろうか。

 

 

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