もっと、いつも

☆☆ 5 ☆☆

   

ドキドキする。

嫌な汗が出てきた。
那波のマンションに一歩近づくたびに、緊張してくる。

アイツは授業が終わった途端に帰ってしまったから、真っ直ぐ帰っているならもう家に着いているはずだ。
どこかに寄り道してたら……それはそれで仕方がない。
こんなに気まずい状態のまま、明日も過ごさなくちゃいけないなんて、考えるだけでも嫌過ぎた。
那波が怒ったまま許してくれなくても、とにかく一言謝りたかった。

誰だって自分の大切な人をバカにされたら怒る。
『あんな友達』
…水沢くんたちの事を、“あんな人たち”って思っていたのは確かだ。
だけど、那波の事をよく知らない以上に、私は彼らの事なんて全然分かってなかったのに。
(それなのに、那波にあんな事言っちゃうなんて…)
自然と歩みが遅くなる。

(嫌われちゃったかな)

嫌われてもしょうがないと思う。
もともと好かれてたとは思ってないけど、喋ってもらえるぐらいの一般人ぐらいではあっただろう。
(はあ……)
那波のマンションは駅から近くて、頭の中がまとまる間もなく着いてしまった。

「はあ……」
心の中で何度もついたため息。
那波のマンションのドアの前で、思いっきり声に出る。
(………ああ…)
帰りたくなる気持ちを抑え、私はドアホンを押した。

「…………」
「!」
いきなりドアが開いて、ビクっとしてしまった。
すぐに那波は出てきた。まだ制服のままだった。

「何の用?」
学校でダラっとしている彼の表情そのままに、いかにも鬱陶しそうに私を見た。
「あ!あの……昨日は!」
気持ちが高ぶって、つい声が大きくなってしまった。
マンションの通路に反響して、響き渡る。
那波は慌てて私を止めた。
「ちょっと、待て!お前、声デカ過ぎ。やめろよ」
「あ、あ……ご、ごめんっ」
そう返事した声も大きかったと思う。

とりあえず私は深呼吸した。
那波を見ることができずに、小さな声で言った。
緊張しすぎて気持ち悪くなってくる。

「昨日は、ごめん……あんな事言うつもりじゃなかった…」
「ああ、いいよ。もう別に」
「へ?」
意外にもあっさりした反応に、私は顔を上げた。
「オレも言い過ぎた。悪かったな」
「……う、……うん」
那波はもう怒っていないみたいだった。
そういえば今日学校で彼がどんな表情をしていたかは、私も彼を見ていないから分からなかった。

ドアのところでモジモジしていたら、那波が言った。
「まだ何か用があんの?」
「えっ……えっと、その……」
別にそれ以上の用はなかった。
ただ謝って、うまくいったら許してもらいたいというのが最大の目的だった。
それがあまりにあっさり叶ってしまい、何だか拍子抜けしていた。

マンションの共用廊下、私の後ろを台車を押した宅配の人が通り過ぎる。
自然と那波の部屋の玄関に入ってしまい、ドアが静かに閉まる。
怖い那波を想像していたので、今、私はかなり脱力していた。
「はあ、喉かわいちゃった…」
安心し過ぎて、無意識にこんな言葉が口から出てしまった。
実際に喉がカラカラだった。

「……いいぜ、入りなよ」
那波は笑っていた。

彼の笑顔を見て、私は本当にホっとした。
そして、那波の部屋に足を踏み入れた事に改めて気付く。
違った緊張感が足元から上がってくる。
入り口からは見えなかった、フローリングの廊下を歩く。
廊下の途中にドアがあったけれど、そのまままっすぐリビングに入った。

「…結構片付いてるね」
部屋を見回して、つい言ってしまう。片付いている、というより殺風景な部屋だ。
男所帯の那波の家は、もっとむさくるしいと思い込んでた。
完全に想像は裏切られ、意外にも掃除が行き届いていた。
リビングには大きな窓があって、壁際にはテレビ。
テレビの前は広くスペースが取ってあって、離れたところにソファーが置いてある。
こんなに広かったら、仲間の溜まり場になるのも分かる。
テレビの前にはゲームソフトが無造作に散らばっていた。

キッチンへ向かった那波が私に声をかける。
「その辺座って…、何飲む?ってもコカコーラとペプシと…ダイエットコーラと…」
「全部コーラじゃん……何でもいいよ」
私はソファーに座った。

那波がコーラのペットボトルを二つ持って来る。
「1本丸ごとくれるの?悪いよ……お金払うよ」
私はカバンに入れた財布を取ろうとした。そういえばこれはカズくんに買ってもらったものだった。
「いいよ、金なんていらねーよ。それより今度、学校でジュースおごれ」
「分かった…」
ペットボトルを受け取る。
那波は私の隣に座った。
教室と同じ。私の右側に。

「……………」

沈黙のせいで、緊張が強烈に高まってくる。
(私、何してるんだろ?何、那波の家に入っちゃってるの?)
「謝りに来たのに、コーラご馳走になってる……変なの」
黙っていられなくなって、私は言った。
那波はいつもよりずっと優しい声で、小さく答えた。
「昨日は…オレも言い過ぎた……比留川 だって、悪気がないの分かってるのに」
「……」
私はただ、頷いた。

(良かった……本当にもう怒ってないみたい…)

あのまま、ずっと怖いままの那波だったらどうしようかと思った。
もう私に向かって、普通に話してもらえなくなったら…目を合わせてももらえなかったら…。
そう思ったら不安で悲しくて、昨晩は眠れなかった。
(良かった…)
ホっとして、ちょっと泣きそうになった。

ふと気付くと、那波はすぐ隣にいた。
二人とも制服姿なのに、ここは学校じゃない。
いつもの配置で座っているのに、ここは教室じゃない。
那波と目が合う。
すごく近い。

息が止まりそうな緊張感に、私は完全に固まってしまう。

「……………」


近いと思っていた距離が、私の想像を超えて更に近づいてくる。
誰かとこんなに近付いた事なんて、ない。
こんなに近付いた事なんて……

睫毛が触る、と思った瞬間。
目を閉じてしまった。
唇に、…触れるもの。

それは……

「……………」

信じられなくて、何の反応もできなかった。
たぶん、…………今、那波にキスされた。
その証拠に、彼の顔はまだ私のすぐ目の前にあった。

「なんで……」

私のその言葉をふさぐように、那波の唇がまた押し付けられる。
(キス…………)
自分が何をしているか分からなくなってくる。
現実じゃないみたい。
どうして、那波は私にキスしているの…?
本当に、私は那波にキスされているんだろうか…

ファーストキス。

いつか、好きな人とって、ずっと漠然と考えていた。
もしも今、本当に私が那波とキスをしているならば、これは好きな人とのファーストキスだ。
(夢みたい………)
頭の中が、ぼうっとしてくる。
目を開けても、視野に霞がかっているみたい。
紗をかけたような世界の中、私の前に、好きな人がいた。


「…嫌だったら、やめるから言って」

その言葉の意味がよく分からないまま、私の体に那波の体重がかかる。
(好きな人と、いつか)
それが本当に叶えられるなら、それでもいいと思った。

(好きな人が、今……こんなに近くにいる…)

届かないと思っていた想いが、現実味のないまま私に触れてくる。
私は目を閉じた。
頭の中が、真っ白になった。
 

 

ラブで抱きしめよう
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