もっと、いつも

☆☆ 6 ☆☆

   

送る、という那波を振り切って、私はアイツの部屋を出た。

………信じられない。
実感がなかった。
全く。



服は全然脱いでなかった。
でも下着は無かった。
痛かったような気もする。
気がつくと放心していて、那波の「大丈夫か?」の声でハっと我に返った。

「ト、トイレ貸して」
「ああ、…そこ、廊下の左、近いほうのドア」
那波の家のトイレで、洋服を直した。そこでショーツも はいた。
血が出てた。
(私、那波と………)
ギュっと目を閉じていたし、何だか頭も真っ白で、何が何だか分からなかった。
自分が何をされているかも分からなかった。

トイレから出ると急いでカバンを持った。
「若林、送る……」
「いい、いい、大丈夫!じゃあまた明日ねー!」
何か言っている那波を背に、私はドアを閉めた。



「はあ……」
ボーっとしたまま、自分のベッドに入る。
晩御飯の時、頑張って普通の自分でいるように心がけたけど、ちょっと変だったと思う。
母親の顔が直視できなかった。

(処女じゃ、なくなった……??)

もっと、すごい衝撃なのかと思ってた。
(世界は、ひっくり返ったりしない……)
私は目を閉じた。
(那波と、初体験しちゃった……多分)

『うわーーーーーーーーー!!!!』

声に出せない叫びを、私は胸の内で何度も繰り返した。



―――― 翌日

ベッドに入っても、眠っているのか起きているのか分からないような状態が続いた。
そして目覚めると、普段なら家を出ているはずの時間だった。

「はあ、はあ、はあ………」

こんなに真剣に走ったのは、いつ以来だろう。
駅を出て、ひたすら走った。
自転車をすごい速さで漕いでいる男子に抜かれ、私も走る。
(遅刻する……)
この際、朝自習の時間なんてどうでもよかった。
でも1時間目に遅刻するのは避けたい。

今の私、こんな状態でみんなに注目されるのは、何だか自分自身が いたたまれなかった。


廊下を小走りに進む。
教室のドアは開いていた。まだ、ざわついている。
時計を見た。もうすぐ9時だった。
「花帆、珍しいじゃん、ぎりぎり〜〜」
教室のドアでしゃべっていた女子に声をかけられる。
「はあ、………おはよっ」
それだけ言うと、勢いのついたまま、私は自分の席になだれ込む。

「はあ、はあはあ、あー………、疲れた………」

ここまで走ってきたせいで、止まって急にドっと汗が出てくる。
机に突っ伏したその横、そこで初めて那波が目に入った。

「…………よお」
那波が私にチラっと目をやって、言った。

「あー……、うん」
もうすでに心臓はバクバクで、呼吸を整えるのが精一杯の状態だった。
思わず那波が持っていたお茶のペットボトルを、ジーっと見てしまう。
私の視線に気付き、那波の目が手元と私の顔を行ったり来たりした。
「……もしかして、飲みたい?」
「……」
返事の代わりに私はうなづいた。
間接キスになると一瞬思ったけれど、昨日本当にキスしたことを思い出して、恥ずかしくなってくるのを堪える。

那波は黙ってペットボトルを差し出した。
私も黙々とそれを飲む。
そこで教師が入ってきた。

「ありがと」
小さな声で言って、私は彼にペットボトルを返す。

「大丈夫か?」

「うん」
返事はしたけど、その『大丈夫?』の真意がどこを指しているのかは分からなかった。


授業が始まり、走った分の動悸は次第におさまっていく。
だけど、心の中から来るドキドキは止まらない。
どうしてそうなってしまうのか…それは、分かってる。

今朝、那波に会った時に、一体どんな顔をしたらいいのか、ずっと考えていた。
だからこうやって、何となく朝をやり過ごせたのは良かった。
普段の那波と私は、喋るときもあるけど喋らないときもある、そんな感じだったから、
授業が始まってしまえば、無理に会話をしなくても不自然じゃない。
結局その日は、二人で話すこともなく、何となく1日が終わってしまった。

私はホッとした。
だけど、寂しい気もした。
私にとっては すごい事だったのに、那波にとっては何でも無い事だったのかも知れない。

結局そのまま生理になってしまって、自分自身、あの時初体験を経験したのかどうかさえも、あやふやに思ってきた。
おまけに週末になってしまい、土日を挟んだら余計に不確かな気がしてきた。

(両想いなんて、なれるわけない……)

不思議と、那波が自分の彼氏になるイメージは全く無かった。
那波…あの男、…の彼女、イコールそれが自分、だなんて全く思えなかった。
……あの事は、ただの気まぐれだったんだろう。
そうだとしても、私なんかに手を出してくるなんて、那波は物好きだと思う。
(今、彼女がいないみたいだし……もしかして、欲求不満?)
そんな捌け口に自分が使われただけだとしたら、ちょっと悲しすぎる。

ほんのちょっとでも、……私の事を「いいな」って思ってくれた一瞬があったのなら…
私の気持ちも随分救われるんじゃないかと思う。
悲しいぐらいのマイナス思考。
だけど、少なくてもあの一瞬は、那波の目には私だけが映っていたはずだ。
あの一瞬は……

薄い記憶の中、はっきりしていることがある。
すごく…キスが優しかった。

(あんなキスされる彼女は、幸せだなあ)

頭の中の妄想は、やけに生々しいものになってしまった。
那波のことを考えると、すごくドキドキした。
隣に本人がいると、もっとドキドキしてしまう。

見つめたいのに、もう恥ずかしくて見ることさえできない。

ただの片想いだったら良かったのに、と思う。
彼にこんなに近づかずに、ただひっそりと陰から想っていられれば良かったのに。
キスされて、余計に好きになってしまった。
もし、キスされなければ、こんな風には想わなかったかもしれない。
結ばれたのなら、何故か余計にむなしい。
自分の中の想いに、大きな傷をつけられた気がする。

それでも、那波のことが好きだった。



何もなかったみたいに、それから2週間が過ぎた。
もう、7月になってしまう。
那波はちゃんと学校に来るようになっていた。
それは嬉しかったけれど、虚しさは大きくなるばかりだった。
きっとこのまま毎日が過ぎて、そして夏休みになって、そして本当に何もなかったことになって、秋を迎えてしまう気がした。
その頃には、那波にとって私は単に同じクラスの女子の一人、そんな感じになるだろう。
もう、実は既にそんな感じなのかもしれない。
最初から何でもないのに、何かを期待する方がおかしい。
だけど何でもないのなら、本当に何もない方が良かった。

悲しい、とは違う、涙も出ないような虚しさ。
手に入っていないものを失ったって、それは無くしたことにはならない。
ただ、優しく私を見た那波の目が忘れられない。
それが辛かった。



電車に揺られ、家に帰る。
アイツのマンションは、電車からも見えた。
あそこへ、何度も行った。
そして、キスもした。それ以上も。
(はあ……)
那波のことばかり、考えていた。
考えても仕方が無いのに。どうにもならないのに。
席は隣なのに、全然那波のことを見ることができなかった。
時々、何かの拍子に喋るぐらい。

私はいつも、遠くからアイツを見ていた。
那波は、仲間といるときはいつも楽しそうにしている。
アイツはもう許してくれたけれど、『あんな人たち』なんて言っちゃって悪かったと思う。
最近ほとんど喋ってないから、あんな笑顔を間近で見ることもなくなってしまった。
(寂しいな……)
憎まれ口でもいいから、今までみたいに話したい。
元に戻れるのなら、何もなかったことにしてくれていい。

通学途中の電車は、イヤでもアイツのマンションを通り過ぎる。
その度また思い出して、いつも暗い気分になってしまう。

好きな人と結ばれたのに、喜べない自分。
誰かと付き合ったこともないのに、処女じゃない私。

想いはループしてループしてループして、どんどん深みに落ちてしまう。
私は暗い気持ちで、家までの道を歩いた。


「若林」

突然、聞き覚えのある声。
(まさか……)
振り返ると、那波がいた。

「なんで、こんなとこにいるのよ?」
あまりにビックリして、ものすごく不機嫌な声を出してしまった。
「ストーカーされる気持ちが分かったか?」
那波はニっと笑った。
久しぶりに間近に見る、その表情。
私はものすごく嬉しくなったけれど、それを顔に出さないようにグっと口元をしめた。

「何してるの?」
「何……って」

那波が向こうを見る。
帰る途中まで続く遊歩道は、広かった。
自転車が通り、私達は端による。それでも十分まだ人が通れるぐらいだ。

しばらく沈黙があり、那波が口を開く。


「怒ってるんだろ」
そういう那波の目の方が、怖い。

「は?」
「あのこと……やっぱり、怒ってるんだろ?」
那波が私から目をそらした。つま先で地面を軽く蹴る。
「あ、ああ……」
あのこと、と言えばあの事しかない。
分かっているけれど、そうやって本人の口から言われちゃうとすごく恥ずかしい。
おまけに、やっぱりそうだったんだ、と妙に実感が湧いた。

「怒ってないよ」
「ウソだろ」
「怒ってないって」
「だってお前、オレのこと全然無視じゃん」
「無視してないよ」
私はムキになって言ってしまう。
那波がそんな風に思っていたのは意外だった。
彼の目に、私はそんな風に見えていたんだ。

「ごめん……怒ってないし、無視もしてないよ」

改めて、ちゃんと言った。
なんだか、悪いことしちゃってたのかなと思った。

「マジで、怒ってない?」
那波の姿がガラになくしおらしくて、私は笑ってしまう。
「怒ってないよ、そう思ってたら……ごめん」
「オレこそ………………、ごめん」
ごめん、の声がすごく小さかった。

こんな風に謝られるのも何だか悲しくて、思わず言った。
「あ…謝るようなことだったの?」
「そういうワケじゃねえけど、」
那波は背筋を伸ばし、私に向き直る。
「…帰るんだろ?」
「あ、うん…」
話は終わったみたいだ。

なんだか拍子抜けしたけれど、那波と話せて良かった。
それに、会えて良かった。

「お前んち、こっち?」
さっき私が進もうとしていた道を指差して、那波が言う。
「うん、そう。それじゃ」
本当はもっと一緒にいたかったけれど理由もないから、私は歩き出した。

「送るよ」

「えっ」
私は男の子と付き合ったことがない。
だから誰かに家まで送ってもらったことなんて、ない。
唐突な那波の提案に、私は急にドキドキしてくる。
「こっちだろ?」
那波が歩き出してしまう。
自分の家に帰るのに、私が那波の後を追う形になっていた。

「貸せよ」
「???」
キョトンとしていると、那波が私の通学バッグに手を伸ばした。
「えっ?えっ?」
「まあ、いいじゃん」
那波は斜めがけした自分のバッグと、私のバッグも右肩にかけた。

「え、っと……、あ、…どうも」

どうしていいのか分からなくて、とりあえず変なお礼をしてしまう。
那波は笑ってた。
彼の笑顔は好き。というか、大好き。
今日、改めて、……こんなに好きになっていたことに驚く。

久しぶりに近くにいる那波への想いが、体の奥底からどんどんこみ上げてくる。

緊張してきて、何も喋れなくなってきた。
二人で歩いているだけで、尋常じゃない動悸。
「どっち?こっち?」
交差点で那波が私に聞いてきた。
「あ、右」
曲がると一気に道が狭くなる。

自分の日常の風景に、那波がいることが不思議だ。
そして、こんなに近くに。

「!?」

手ぶらの右手に、触れるもの。
恐る恐る見ると、那波の左手が私の右手を握っていた。
「な、何で?」
思わず言ってしまった。
恋愛にも、男子にも、免疫のない私はますますどうしていいか 分からなくなる。
「怒った?」
横に並ぶと、那波とは背がだいぶ違う。
私は彼を見上げて、そして目が離せなくなる。
「ええ?えっと…別に、お、怒ってないけど」
「じゃあ、こんな感じで」
そう言う那波はすごく笑ってた。
嬉しそうというよりも、可笑しくてたまらない、みたいな感じで。
バカにされているみたいな気がして、私は言い返す。
「やっぱり、怒った」

「そうか、そうか」

そう言った那波の手は私から離れない。
表情だって、さらに笑顔になっていた。
私の右手は、心臓みたいだった。
 

 

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