「花帆、いるー?」
教室にバカでかい声が響く。
『花帆』という名前で、オレは嫌でも反応してしまう。
聞きなれた声、龍大だった。
「うるせーよ、お前。人のクラスで」
オレは思わず立ち上がって、龍大のいるドアの方へ向かった。
「お前じゃねーよ、花帆だって」
龍大はそのままのデカイ声で、オレを半分シカトする。
席を立ってしまったオレは立場が無い。
「私…?」
若林がビックリしたまま、龍大の方へ歩いていく。
それを見守る、彼女の友人たちも驚いていた。
「なんなんだよ」
オレは龍大に言った。
「まあ、お前が一緒に来てもいいけど」
「なんでお前が、花帆に何の用?」
龍大の態度がちょっとカンに触り、オレはムキになって『花帆』の部分に力が入る。
「龍大くん、何ー?この前奈々央ちゃんに会ったよ〜」
結構注目が集まっているというのに、呑気に若林はニコニコしていた。
オレたちは廊下に出る。
「おー、変わったじゃん!奈々央から聞いてて、絶対花帆を見て来いって言われたからさ」
若林は眉毛を整えただけで、ずいぶん印象が変わった。
ひと言で言うと、グっとあか抜けた。
こう見ると、地味さの原因は全部眉毛にあったんじゃないかと思えるぐらいだ。
「カワイイじゃん〜〜。良かったな、拓真」
廊下に出ても龍大の声はデカくて、声が響き渡る。
「ちょっと、龍大くん、声が大き過ぎて恥ずかしいよ!」
(よく言った、若林)
「へー、でもちょっと変えるだけで随分変わるんだな。女ってスゲー」
「そ、そんなに変わってないよ」
若林は前髪を押さえて、眉毛を隠してる。
「もしかして、龍大くんの用って、それだけ?」
「ああ、そうそう。奈々央が今度遊ばないかだって。オレと拓真と一緒に」
「それって〜…」
若林はそこで言葉を止める。
まさかダブルデートとか言おうとしたんじゃないだろうな。
「オレはいいぜ。奈々央によろしく!お前も自分のクラスに戻れ」
オレは手で龍大を追い払う仕草をすると、若林の肩を掴んで教室に入った。
無意識にしていたとは言え、オレは若林の肩を抱いていた。
そのまま教室に入って、猛烈に注目される。
若林を見ると真っ赤になっていた。
オレは慌てて手を離すと、急いで自分の席へ戻る。
自分の席に戻ったって、若林の席は斜め前だ。
嫌でも外野の視線を感じた。
(はー、疲れる…)
でも確かに若林は可愛くなってきてる。
オレの気のせいなんかじゃなくて、現実に。
6時間目の終わり、終礼の時にプリントが
配られた。
「来週の金曜までに各自提出するように」
進路希望を書く紙だ。
ここは一応付属高校だから、大半のやつはそのまま上に上がる。
上昇志向のヤツが、もっと難関大学を目指して外部受験をする。大体そういうやつが2割。
上に上がるにしても、人気のある学部と、そうでない学部の差が結構あって、人気の学部に入るのにはそれなりの成績が必要だ。
オレの場合は出席日数がギリギリなのが問題だった。
(進路か…)
数か月前まで、高校を辞めようかと思っていた時もあった。
(でも学歴が中卒っつーのも、痛いよな…)
今、冷静にそう思える。
やっぱりあの頃のオレはどうかしていた。
周りにそういう先輩たちがいて、結構普通に生活しているのを見ていたら、学歴なんて何も関係ないんじゃないかとさえ、マジで思っていた。
オレが今、こうやってちゃんと学校に来るきっかけをくれたのは、若林のおかげだ。
そして全然考えたくなかったが、それは比留川のおかげでもある。
しつこく声をかけてくれた和久井だってそうだ。
(変だよな…)
進路なんて、全然考えていなかった。
高校をギリギリぐらいで卒業して、その後は適当に今のバイトを続ければいいぐらいに思っていた。
(進路、なあ…)
若林はどうするんだろう。
そんな事を考えて、オレは彼女の背中を見つめた。
自然に若林の白い肌と、『拓真』と呼んでくれた声を思い出した。
体力がゼロ状態のところから、2週間。
あっという間に試合の日は来た。
オレは部員だけど部員じゃないような存在だから、前半の試合は見ていた。
25対36で、S高は劣勢。
後半からオレが入る。
自分で言うのもなんだが、オレが入っただけでチームが緊張するのが分かる。
それは良い意味でだ。
相手からボールを奪う、走る、パスを回す。
走る。
パスをフェイクして、そのままシュート。
流れに乗って『無』になると、全てが自然に受け入れられる。
靴が滑る音、ボールの響き。走る振動。
結果、2スコア差でオレたちは勝った。
今日試合をした高校は、トーナメント戦で頻繁に当たるところだった。
「やっぱり、お前が入ると全然違う」
帰り際、和久井が言った。
「もっと緊張してやればいいんじゃねーの?お前ら緩すぎるんだよ」
オレは思った通りに言った。実際に本当にそう思っていた。
「マジで、続けるつもりないのか?」
和久井の声がいつになくマジだ。
河川敷の広い公園の、野球場が見渡せるベンチにオレたちは座った。
暑い日で、オレは何本目かのペットボトルを開けた。
「………」
離れている時でも、オレの事なんかを気にかけていてくれた和久井には感謝してる。それは本音だ。
何だかんだ言っても、1年の時は相当仲が良かったんだ。
「2週間、部活に戻って思ったんだけどさ」
オレは切り出した。
和久井は真剣に聞いている。
「オレ、バイトもしたいし…、彼女もいるし、バスケがオレの1番かって言ったら、違うんだよな」
「………」
「バイトして、朝練して、とか…無理な気がする」
オレは和久井を見た。
「時々しか練習に来ないような奴がいたら、やっぱり部のモチベーションが下がるだろ?」
「那波…」
「だから、やっぱりオレは辞めた方がいいと思う。部のためにも」
「お前は家庭の事情があるから」
和久井が重い口を開いた。
「みんなに理解してもらえない事も無いと思うけれど」
「部活に行かない理由が、彼女と会うっていう事でもか?」
「………」
困ったような、驚いたような、微妙な表情でオレを見る和久井。
「もう戻る気って、本当に無いのか?」
「戻れないだろう、こんなんじゃ」
オレはバスケが好きだ。
一時期夢中になってやっていた事もある。
でも家の事や、学校の事がどうでもよくなってきたのと同じぐらい、自分の中であれほど熱中していたバスケさえ重要な事じゃなくなっていた。
「分かった…」
和久井は荷物を持って立ち上がる。
「那波、今日出てくれてありがとうな」
「………」
オレは半歩後ろで、和久井についていく。
「オレの方こそ、お前には感謝してる」
言葉にしてみて、言いようのない切なさが押し寄せてくる。
大事なものとの惜別。
オレの高校時代の1つが、終わる。
「しかしお前、ケータイ持ってねーの?」
オレは和久井の隣を歩いた。
「学校と部活の往復で、使わないんだよ」
「手紙もらった時はビビったわ。今時手紙ってスゴくねえ?オレ、男から初めて手紙もらったし」
若林から預かった、和久井の手紙はまだオレの部屋の机の引き出しにある。
「うるせーよ」
ガラにもなく照れてる和久井をいじりながら、オレたちは帰路に着いた。
「試合どうだった?」
1回帰って、シャワーを浴びて着替えてから、オレは若林と駅で会った。
若林はいつも可愛らしい服を着てる。
肩が横に大きく開いた水色のパフスリーブを着ていて、その露出がヤバい。
「勝ったよ。ギリギリ」
オレはすぐに彼女の手を取る。
握り返してくれる若林の手が柔らかい。
(こいつって、どこも柔らかいんだよな…白いし)
ちょっとエロい妄想をし始めたら、花帆が言った。
「バスケ部、続けるの?」
「ああ…、やっぱり辞める事にした。和久井にも話したよ」
駅ビルを上がる。
雑貨屋の多いフロアの奥に、店外まで座席のあるカフェがある。
オレたちはカップのアイスコーヒーを持って、外の席に座る。夕方でだいぶ人は減っていた。
「そうかぁ…、バスケもうやらないんだ。見たかったな、してるとこ」
「でもバスケ部員じゃねーから、10月のスポーツ大会、オレ、バスケで出れるぜ」
「じゃあ応援できるね!うわー楽しみ!!」
屈託のない笑顔を向けてくる花帆が、本当に可愛いと思う。
(あー、触りてえ…)
目の前に大好物があるのに手を出せないという、拷問のような教室での日々が蘇る。
オレは手を伸ばし、花帆の手を触った。
「手、冷たいね」
「カップ握ってたから」
そう言ってオレはちょっと力を込めて、また握る。
「そう言えば、なな…じゃなかった、拓真は進路どうするの?」
「花帆はどうすんの?」
名前を呼ぶだけで照れあうとか、どこの中学生だよと思いながら、何か幸せだ。
「私はー、教育かなぁ、第一志望は」
「教師って、すっげー花帆らしいじゃん!ぴったり。ヒルと言い、血筋かもな」
紺のピッタリしたスーツを着て、なぜか眼鏡姿の若林を想像して、オレは無意味に興奮してくる。
「拓真は?」
「オレー?…実はまだ何も考えてねえ」
「でも、これからずっとちゃんと出席すれば、何とか進級できるでしょ。そしたら大学には行くでしょう?」
「あー、うーん。どうすっかな。そもそも最近まで不登校気味だったってのに、何か更生したよな、オレ」
自分で言って笑ってしまう。
時間は容赦なく過ぎて行って、もう高校生活の半分が終わろうとしている。
花帆が変わっていくように、オレも変わっていくんだろう。
そもそも1年前の自分と比べても、今の自分は全然違っている。
まさか家族がバラバラになると思ってなかったし、バッサリバスケを辞めてるなんて想像もできなかった。
彼女ができて、こんなにマジになってるって事も。
その相手が、若林だったって事も。
(進学できるなら、それがベストなのかもな…)
花帆への気持ちだって、いつか変わってしまうかも知れない。
今こんなに好きなのに、オレがバスケを手放したみたいに、ちょっとしたきっかけでダメになってしまう事だってあるかも知れない。
(だけど…)
自分の中の邪念を捨てて、感情をフラットにして起き上がってくるのは、やっぱり花帆だ。
今のオレの優先順位1位は、彼女だった。
(花帆がしっかりした子で良かった…)
実際、考え方にしても、オレよりもずっとマシだ。
平凡で、真面目。教師からの評価も悪くない。
(花帆について行こうかな)
そんな事を考えてる自分が笑える。
目の前の若林は、まさかオレがそんな事を考えているなんて思ってもいないだろう。
「えっ…、何?」
オレがじっと見ていたら、花帆は耳まで真っ赤にして照れてる。
一瞬、ここでキスしてやろうかと思った。