ベイビィ☆アイラブユー

ラブリーベイベー編 ☆☆ 17 ☆☆

   

昨日まで普通に日常生活をおくっていた人と、今日からは もう会えないなんて、当時のオレには到底受け入れることはできなかった。
詩音の母、沙織さんは死んだ。

オレの母さんが死んだ時は、オレは幼いながらにも漠然と覚悟をしていた。
病弱な母が、そう長くはない事を悟っていたのだ。

それでもあの頃のオレは幼くて、母親が死んだ事にどこか実感がなかった。
元来母は活発に動き回る性質ではなかったし、ほとんどの時間を自室のベッドで過ごしていた。
オレの物心ついた時から母はすでにそうだった。

もしかしたら母さんが生きていたとしても、オレは母性を沙織さんに求めていたかもしれない。

大切な家族を失った時でも、オレの家にはもう一組の家族がいた。
尊さんと沙織さん、そして詩音。
留守がちな父と住むこの屋敷がオレは怖くて、小さい頃は詩音の家でばかり過ごしていた。
オレは、オレにとっての死んだ自分の母の存在感を改めて知った。
例え母が自室に閉じこもっていようとも、母が家にいる、という事実がオレを安心させていたんだ。

そんなオレも段々と成長し、詩音が家族ではないと、そしてオレと立場が違うと意識しだした頃、オレは詩音の家には近づかなくなっていく。
詩音本人に関しては、意識的に避けてた。
あいつは相当ショックを受けていたみたいだったから、今になってみると可哀想だったと思う。
当時のオレは相当ガキで、他人を思いやる余裕なんてこれっぽっちもなかった。

津田家と距離を置く一方で、沙織さんの存在だけは違ってた。
沙織さんは、オレにとって『母』そのものだったからだ。

津田家はオレの家に住み込みで働く使用人一家で、沙織さんは毎日自分の仕事をしているに過ぎない。
だけど沙織さんが屋敷の手入れをしていると、オレは母が自分の家で家事をしているような錯覚を受けた。
現在も来ている伊藤さんのように『お坊ちゃん』と呼ぶのではなく、沙織さんはオレを『征爾くん』と呼ぶ。
オレを本当の息子のように扱ってくれた。
心の深いところで、どれだけ沙織さんに救われていたか分からない。
寂し過ぎるこの屋敷の中で、オレは沙織さんに癒しを見出していた。

寒すぎる、朝だった。
オレはその一報を学校から帰宅して、代わりに来ていた伊藤さんに聞いた。
どうしてすぐに連絡をくれなかったのか。
オレが、本当の家族じゃないからか。

その後の事は、正直あまり覚えていない。
お葬式でさえ、どんなものだったか思い出す事ができない。
(あの時、詩音はどんな顔をしていたのか……)
自分の事ばかりで、詩音の事に目がいかなかった。
そのことは今でも、すごく後悔している。
今のオレなら、もっとあいつを支えてやれるのに。

沙織さんの死は、自分の母親の死をはるかに超える規模で、オレにとってショックだった。
彼女は、つい昨日までここにいたからだ。
この屋敷の掃除をし、食事の手伝いをし、オレに話しかけ、笑っていたのだ。
唐突すぎる死。
命というのはこんなにも簡単に、消えてしまうのか。

オレは怖くなった。

それから日数が経ち、オレは心の奥に恐怖を封じ込めた。


なのに、最近よく夢を見るんだ。



母さんがいる、中庭に。
母はとても元気で、楽しそうに笑っていた。
オレはその姿を見て安心している。
母がオレの届かない場所にいても、オレは母さんの笑顔を見るだけで満足だった。

日差しが柔らかく射す緑の中、向こうから沙織さんが歩いてくる。
二人は楽しそうに話し、時々空を見上げた。
二人とも、オレの存在に気付いていない。

『セイちゃん、何見てるの?』
詩音がオレの側にくる。
オレは答えずに、ただ窓の外を見た。
この世とそうでない世界を隔てるような、ガラス一枚。
『あ、ママだ』
詩音が嬉しそうに声をあげる。
『ママ!』
向こうの世界に手を振る詩音を見て、突然オレは不安に襲われる。
(詩音!)
声が出ない。
詩音が笑顔を見せる向こうの景色に目をやった一瞬、オレの隣から詩音が消えた。

(詩音?!)

オレは窓を叩く。
しかし向こうの世界にも詩音はいない。
母たちはオレに気付く事なく、穏やかな笑顔を浮かべて楽しそうにしていた。

オレは詩音を探して、窓づたいに走った。
長い廊下は、どんなに走っても先がない。
向こう側、母たちの姿だけが遠ざかる。
そこに詩音はいない。
(詩音!)
叫んでいるつもりなのに、全く声にならない。
(どこだ!詩音!)

ここにも、向こうにも詩音はいない。
詩音は消えてしまった。
そして、彼女にもう二度と会えないという事だけはハッキリと分かった。

(行くな!詩音!行かないでくれ!!)

走り回る廊下。
ふっと穴が開いて、オレはどこかに落とされる。
ドン!
落とされた場所は、自分のベッドだ。
(詩音……行くな…)
馴染みのあるこの部屋で、相変わらずオレは声が出せない。
やっとの思いで重い体を起こし、普段より5倍ぐらい遅いスピードで、オレは歩き出す。
詩音の部屋が見える、窓へ。

(詩音っ……)

窓の外は ただ白く、詩音の部屋などなかった。
確かにオレの住んでいる場所だというのに、詩音の家、つまり離れだけがないのだ。

オレは詩音がいなくなった事を実感する。
詩音なんて、初めから存在しなかったようなその空間を見つめながら、オレは声にならない叫び声をあげた。
もう二度と会えない事だけは分かっていた。
詩音に、もう二度と…………



「詩音っ!!」

自分の声で目が覚めた。
「はあ……はあ……」
手……。オレの。
一瞬何が何だかわからない。
ここはオレの部屋だ。
ベッドから慌てて飛び上がると、急いで窓に向かう。
カーテンを開けた。
すぐ向こう、3,4メートル先に詩音の窓が見えた。
「ああ……」
オレは窓に背をつけ、ズルズルと腰を落とした。

「夢か………ヤバイ」


びっしょり汗をかいていたし、涙も沢山流れていた。
(最近、こんな夢ばっかり見るよな…)
詩音がいなくなったというあの喪失感。
そして、もう二度と会えないという確信。
(嫌な感じだ…)

詩音の事が好きでたまらなかった。
絶対に、失いたくない。
詩音が今日、生きて側にいてくれるのがどんなに幸せな事か。
オレは『死』に敏感になっていた。
愛しいと思えば思うほど、それはオレを呪縛する。
沙織さんを失った、あの経験が、…今でもオレを恐れさせた。
(詩音が、死ぬ……)
想像したくないのに、無意識にいつも意識してしまう。
特に一人の時はそうだ。
そして寒い朝はもっとそうだ。



家庭教師が頻繁に出入りするようになり、オレは今までのように詩音と過ごすことができなかった。
毎日のようにあいつの顔を見ているのに、触ることさえできない日が続いた。
日曜だけのデートじゃ、全然足りない。

「あーあ」
あれから1ヶ月過ぎ、もうしばらくすると冬休みになる。
長い休みには必ずアメリカに行く事になっていた。
受験勉強があるからと、今年は断りたかった。
それを親父に話したが、『まだ2年なんだし、向こうのファミリーは楽しみにしているから』と却下された。
(………)
詩音と離れたくなかった。
詩音と付き合って、初めての冬。
冬はオレの母と、詩音の母さんが死んだ季節で、嫌がおうにもオレの不安を煽る。
(一緒に行ければなあ…)

何もないふりをするのも限界だった。
尊さんは、うすうす気付いていると思う。
どんなに隠そうとしても、詩音の態度を見れば誰だって怪しく思うだろう。

今日は火曜日。夕食も終わり、もう尊さんは仕事へ出かけている。
明日は尊さんが休みで、夜はずっとここにいる予定だ。
親父は今日まで出張で明日帰ってくるはずと、伊藤さんが言っていた。
時計を見る。今は9時半すぎ。
「今日は、チャンスだよな…」
オレは詩音に電話した。

「詩音、今からこっち来いよ」
『えっ……、今?今?』
明らかに戸惑う詩音の声。
「会いたいよ、詩音、来いよ……お前はオレに会いたくないの?」
『……会いたいよ…』
「じゃあ決まり、来いよ。オレもセコム切りに下に下りる」


「こ、こんな事していいのかな?」
突然呼び出されて、詩音は明らかに焦っていた。
「いいんじゃね?もっと早くしとけば良かった」
「だけど……」
詩音の言葉をさえぎって、オレは彼女を抱きしめた。
「いい匂いする…」
「だってお風呂入ったもん」
詩音もオレの首に顔をうずめてくる。

「セイちゃん…」

「ああ……」

オレは詩音を押し倒した。
一見不都合に見えても、呼べばすぐに会えるこの距離はやはりありがたいと思う。
(側に……いたいんだ…詩音)
「わたしも…」
詩音は薄く目を開けて緩やかに笑む。
声に出していたのか、それとも伝わったのか…

この際、どちらでも良かった。
(ずっと……側にいたいんだ…)
切実な願いを何度も何度も心の中で繰り返しながら、オレは詩音を抱いた。
 

 

ラブで抱きしめよう
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