誰かの隣で眠っていた。
その寝息はすごく暖かくて、あたしを取り巻く空気は幸せで満ちていた。
彰士……。
あたしはそっと目を開ける。
繋いでいる手から、顔へと視線を動かすと、……
それは先生じゃなかった。
「!」
(あーびっくりした…)
夢…。
「あーーーーヤバイって!」
あたしは夢の妙にリアルな感覚に、体がまだザワザワしていた。
顔を上げて時計を見て、もっとビックリする。
金曜日の1限はいつも遅刻してて、今日遅刻すると後がなかった。
「いやーー!マジで??」
超ダッシュであたしは用意を済ませる。
あたしはGパンにスニーカーを履いて、大急ぎで駅へと向かった。
電車に乗った頃には、さっき見た夢のことなんてすっかり忘れていた。
「…麗佳?大丈夫?」
教室に走りこんだあたしに、愛莉が声をかけてきた。
かなりしんどそうにしてたと思う。
実際しんどかった。
最近ホントに自分の運動不足さを痛感する。
「大丈夫……。やばかった…」
「本郷教授ってさ、日によって来る時間が違うよね」
愛莉がカバンから教本を出した。
「早めに来た日はさ、…ゆっくり来るし。ヤバイって思うと定時で始まってるし!」
あたしは本当にうんざりして言った。
「よっぽど相性が悪いのかもね」
愛莉が笑った。有希はまだ来ていない。
「……」
とりあえずあたしはこの棟の1階で買った小さいペットボトルを出した。
9時を過ぎる。
「……ほら、今日は遅そうじゃん?」
愛莉の言うとおりで、あたしは朝から機嫌が悪くなりそうだった。
走った疲れもだんだんと落ち着いてくる。
それにしても、10分を過ぎてもまだ本郷は来ない。
「おはよぅ!…よかったぁ!間に合ったし、ラッキー!」
有希がニコニコして教室に入ってきた。
「有希は相性がいいみたいだね」
愛莉が苦笑いしてあたしに言った。
結局15分遅れて、退屈な本郷の授業が始まる。
こんな授業を受けるために受験勉強してきたのかって思うとちょっと情けなくもなったけど、
出席さえしていれば単位をくれるからそれでもいいかって思う。
携帯が震える。
着信を見たら、…なんと先生からだった。
こんな時間にメールがくるなんて、すごく珍しい。
あたしは机の下でひっそりとメールを読んだ。
明日急に時間が空いて、こっちに来れそうってことだった。
(うわぁ…ホントに??)
今週は会えるかどうか分からなかったから、あたしはもうホントに嬉しかった。
「有希、明日の予定、…やめていい?」
あたしは小声で有希に言った。最近は有希と遊ぶことが増えてた。
「…先生?」
有希は彰士を知らなかったけど、『先生』って呼ぶ。
「うん」
あたしは顔が笑ってた。
『分かりやすい』って言われるのもしょうがないなって思う。
「久しぶりー!」
あたしは笑顔で彰士に言った。
「麗佳の第一声、…いっつもそれだな」
先生は笑った。
「だって、すごく久しぶりって感じなんだもん。いつも…」
何だか自分が恥ずかしくなる。
「いつもバタバタしてて、ゴメンな」
ホントに申し訳なさそうな顔で、彰士があたしを見る。
「ううん…。だってしょうがないし」
『しょうがない』って言葉も、先生の前で何度言っただろう。
そして自分の中では、もう毎日のように繰り返されている単語。
彰士は白に薄いストライプが入った、品のいいシャツを着てた。
転職してから、彼の趣味は益々洗練されてきたような気がする。
あたしは大学生になって私服の男子を日常的に目にするようになった今、
彰士のお洒落さとか、服の質の良さとか、すごく分かるようになってしまった。
大人で、…社会的地位も高い人…。
だけど何となく自分の生活にかけ離れているような気がしていた。
『先生』でいた頃は、もっと身近な感じがしたのに。
「とりあえず、お昼食べようか?」
先生は相変わらず優しい眼差しであたしを見てくれる。
彰士も、あたしに会いたかった…?
どうしてそんなに詳しいのか分からないけど、いいお店を彰士はよく知ってる。
「彰士って、こういうお店しょっちゅう来てた人?」
あたしにとっては未だに彼は謎の多い人だった。
「いや…、友達が色々な事に手を出してて、…それで情報は入ってくるから」
「ふーん…」
何となく想像だけど、先生の友達って金持ちそうな気がする。
そんな仲間に遊んでる人がいても、ちっとも不自然じゃないなって思ってた。
彰士は、あたしたちが毎日接してた『先生』の顔と全く違う面をプライベートで持ってた。
そして普段の彼を、…あたしはあんまり知らなかった。
それは今でもそうで、それってすごく寂しかった。
素敵なレストランで、二人でご飯を食べる。
お水が入ってるグラスでさえ、あたしたちが普段ランチしてるところとは質が違ってた。
運ばれてきた料理のお皿は、元々テーブルにあったお皿の上に重ねて乗る。
横に並んだナイフを彰士は自然な動作で操作する。
(慣れてるんだ……)
それを感じる。
普段離れているから余計に、先生のちょっとした仕草に色々と思ってしまう。
「麗佳、食べないの?」
彰士があたしを見て言った。
「食べるよ……」
あたしは静かに自分のフォークを取る。
(切ないな……)
どうしてだろう。
せっかく側にいるのに、彰士のあたしの知らないところばかり目についてしまう。
先生も、どんどん変わってきてるんだと思う。きっとあと半年もしたら、
以前高校教師をしていた頃の面影なんてなくなってしまうんだろう。
それに対して寂しさを感じてしまうあたし。
食事をし終わると、やっぱりその後はお互いを求め合ってしまう。
それが自然だと思った。
先生に抱かれてる時が、一番素直な自分になれているような気がする。
何にも考えなくていいから―――
あたしは、ただ彼がしてくれること全てを受け入れていれば良かった。
彼がしてくれること全てが愛しかった。
だけど行為が深まっていくに連れて、次第に自分が分からなくなっていく。
いつからかそれがすごく快感になっていた。
そして同時に、不安も感じていた。
「それじゃぁまた」
別れ際、彰士は軽くあたしにキスしてくれた。
あたしを抱いて、彼は今日も帰っていく。
新幹線のホームで、あたしは電車が見えなくなるまで立ち尽くす。
いつものように、体中の力が抜けてしまう。
彰士に抱かれたからグタグタっていうのもあったけど。
今度いつ会えるかなって、あたしはもう次のことを考える。
テルって、彼女としょっちゅう会ってるんだろうな……。
彰士と別れた帰りの電車で、唐突にあいつのことを思い出した。
(ホントにいいなぁ、…そういうの…)
週が明けて、またあたしの日常が始まる。
学校へ行って、友達とお茶して、そして家へ帰る。
晩御飯を食べ終わって自分の部屋に戻って、先生にメールをした。
別に何っていう内容じゃなかったけど。
そもそもあたしも彰士も、そんなに長文メールするタイプじゃなかった。
(仕事、終わってるかなぁ…)
最近は夜間の診療も始めたらしかった。
医者ってだけで無条件に儲かるイメージがあるけど、このところ駅前に歯科医が増えて競争が激しくなっているらしかった。
『ある意味、自営業だからな』
彰士が言っていた言葉を思い出す。
明日、火曜日だよね…。
一応ちゃんと覚えていて、あたしはテルにメールした。
5分も経たないうちに即返信メールが来る。
あたしはテルからのメールを見てちょっと笑ってしまった。
(なんだかなぁ……。先生もこれぐらいしてくれたらいいのに)
テルが彼女にこんな感じだとしたら、やっぱりテルの彼女は幸せなんだろうなって思う。
でも他の女と遊びまくられるのはイヤだけど…。
(彰士から、今日中にメール来るかなぁ……)
あたしが「先生に感じる幸せ」のハードルはすごく低かった。
何だか当たり前のように毎週会ってた。
そして当たり前のように助手席に座る。
「今日は途中でメシ食おうぜ」
当たり前のようにテルがそう言って車を出す。
「オレさぁ、今日はすっげーカレー気分」
「あ、あたしもーー!そうしよそうしよ」
テルの音楽の趣味はうるさすぎて、いつも車ではFMを聴いてた。
「もうすぐ10月だよね〜もうブーツ履いちゃおうかな」
「でもまだ昼とか暑いだろ?
学校でもブーツ女一杯いるけどさ、すげぇ根性だと思うぜ」
FMでは秋の歌特集してた。
「でもテルだって3月にはコート着てなかったじゃん。それこそすごい根性だよ」
「オレは暑がりだからさ。寒いのは結構ガマンできる」
テルとしょうもない話をしながら、前から何回も行ってるお店に入ることにした。
お店の入り口で、テルの携帯にメールが入った。
それを見て、テルが言った。
「あ、…電話するから、先行ってて」
「うん」
あたしは店に入る。店員に二人って言って、案内について行く。
窓から外のテルが見える。
テルは電話をして、切って…入り口へ歩いてきた。
あたしは空を見て、日が短くなってきたなぁって思ってた。
「注文決めた?」
テルがあたしの前に座る。
「うん」
「オレはいつも決まってるから、じゃ」
そう言ってさっさと店員を呼び止めてオーダーを始めた。
お水を半分ぐらい一気に飲んで、ノドが渇いてたんだなって思った。
「彼女に電話してた?」
あたしは何気なくそう聞いた。
「そう」
テルもコップに手を伸ばした。
(やっぱりメール→即電話なんだなぁ)
何だかそんなことに感心する。
最近テルと一緒にいることが多い。
先生と会う頻度と比べても、あたしの中では一番一緒にいる男だ。
あたしたちは高校時代の同級生の近況を話して、ちょっと盛り上った。
車の中で有希を小笠原くんに紹介する予定を確認して、当たり前のように家の前までテルに送ってもらった。
もう寝る準備は万端って状況で、あたしは携帯を見た。
彰士からメールが入ってた。昨日のメールのレスだ。
(せめてもうちょっと早くくれればなぁ…)
メールが来てすぐに彼女に電話してたテルの姿を思い出す。
(テルの彼女が羨ましいなぁ…)
あたしは彰士にメールを返して、ベッドに入った。
目を閉じたらこの前見た夢を急に思い出した。