その日はすごく晴れてた。
東京よりも広さを感じる空。
青過ぎて、…痛いぐらい…あたしの目に、心に染みる。
先生の住む場所、あたしの知らない土地。
「急に来るって言うから……びっくりしたよ」
彰士は本当に戸惑ってるみたいだった。
実際来てみると、この街は思ってたよりもずっと近かった。
「ごめんね。…急で」
『急』でも、こんな風に来れて会えちゃうんだなって思うと、
今更ながらにこれまでの自分自身が何を迷っていたんだろうと思う。
こんなに近い距離。
遠かったのは、心の距離だったのかも知れないって…あたしはつくづく思う。
もう11月も終わる。
今年の冬は寒くて、彼もあたしもしっかり着込んでた。
白に近いベージュの上品な色のダウンが彰士によく似合ってる。
それに今日は久しぶりに眼鏡をかけてた。
ほとんど1ヶ月ぶりの先生は、相変わらずあたしには魅力的に見える。
あたしを見る目。
どうして今日はいつもよりも愛しく思えてしまうんだろう。
あたしは先生とこうして会えただけで、それだけで涙が滲んできそうになる。
電車に乗ってたときから、油断したら涙が零れそうだった。
「せっかく来てくれたから…ホントは色々計画が立てられたら良かったけど」
「ううん……」
彰士の方からあたしの手を握ってくれる。
今日、あたしの目に映る彼の全てが切なかった。
「寒い?」
あたしを気遣ってくれる優しい目。
「大丈夫」
あたしは何とかそれだけ言った。
ホントに涼子が言ってたみたいに、先生はあたしのことを結構愛しててくれたのかもしれない。
今だって。
今までだって。
もしかしたら、高校時代だって。
(バカだなぁ……あたし……)
これから自分が言おうとしてること、自分が何のためにここまで来たのかを思うと、本当にイヤになってくる。
ちょうどお昼ご飯の時間だったから、2人で食事をとることにした。
座席スペースが個々に区切られた上品な和食屋さんに連れて行ってくれた。
「うなぎ料理がいっぱいだよ」
あたしはメニューを見て言った。
「この辺の名物らしいから。オレでもたまにしか食べないけど」
先生が言った。
「じゃあ、…彰士に任せる」
彰士は店員を呼んで、適当に注文してくれた。
(うなぎ、かぁ……)
ホントは全然そんな気分じゃなかった。
これからスタミナつけても……って感じだったし。
どうしよう、彰士がその気だったら。
(あたしはもう、先生に抱かれることはないんだろうか……)
目の前の先生を見ていると、それは信じられない事のように思えた。
考えていることと、気持ちと、現実と…それぞれが別のものみたいで、…あたしは心をどこに置いていいのか分からなくなる。
彰士の車に乗る。
自分が教習所に通ってるせいもあって、右側が助手席だってことに違和感を感じてしまう。
高校生のときは、この車の感覚が普通だったのに。
大学生になった今、彼のこの車がいかに高級かも分かってきた。
「免許はいつ取れるの?」
彰士が聞いてくる。
「うーん…年内に取れるか取れないかってとこかなぁ…。もう路上出てるよ」
「じゃ、運転してみる?ここ田舎だし」
ハンドルを切りながら、彰士があたしを見た。
「う…いいよ…。仮免は教習所に取り上げられてるし」
「そうなんだ?」
「うん。何かそういう方針みたい」
何気ない世間話。
先生の車は居心地が良かった。
そして先生の隣にいるのも…あたしはすごく居心地がいいのに。
「この辺りは、桜の時期がすごくキレイなんだぜ」
観光客がよく来るような、日本の庭園って感じのところで車を降りた。
「ああ…すごそう…」
あたしは何となく想像した。
水辺を取り囲むように沢山の桜が並んでいた。
(見てみたいなぁ…)
そう思ったけど、多分ムリだってことは分かってた。
(キレイなんだろうなぁ…今年の春、見たかったなぁ…)
あたしは曖昧にしか彰士に返事を返せない。
「……………」
彰士があたしの手を取ってくれる。
あんなにも激しく体を重ねあっているのに、こんな何気ないことにドキドキしてしまう。
(嬉しい……)
やっぱり先生の隣に歩いて、こんな風に触られると本当に嬉しかった。
(先生……)
このぬくもりを感じれば感じるほど、あたしは悲しくてたまらなくなる。
このまま何も言わずに、何もなかったように帰ってしまいたくなる。
「この辺ってさ、こんなにも観光地なんだね…知らなかった」
「オレもこの町を出て、初めて知ったよ。普通、こんなもんだと思ってた」
静寂な感じが美しいところだなとあたしは思う。
富士山に近いこの街。
季節外れで寒い今日は、観光客も閑散としていた。
それでも桜の時期にはすごく人が集まるんだろう。
「彰士は、ここで育ったの…?」
「うん。生まれも育ちも」
そう言って優しく笑った。
(ああ、この優しい目……)
出会ったときからずっと、あたしが愛して止まなかった眼差し。
(どうしよう……)
池を巡る遊歩道から少し外れたところで、あたしは彰士に抱きすくめられた。
「…彰士……」
先生のとる行動にしては意外で、あたしは驚いてしまったのと嬉しいのと、切ないのとで…体を固くしてしまう。
「麗佳」
そしてあたしを抱きしめる腕に更に力が入った。
遊歩道からはあたしたちの姿は見えなかったと思う。
あたしは冬の木々の中、ただ彼に抱きしめられていた。
「…好きだよ…」
「……彰士……」
こんな場所で、こんな風に言うなんて……あまりにも先生らしくない。
いつも求めていた言葉。
そしていつも求めていたこの温もり。
想いが体中を巡って、声にならなかった。
彰士のことが好きだった。
こんな風にされると、もう絶対離れたくないって思う。
だけどきっと2人の毎日はそれぞれにあって…
先生と離れた日常を、あたしはもう一人で過ごしていける自信はなかった。
(……別れたくないよ……)
今日で最後にするなんて、とても信じられなかった。
このまま何も言わないで……また彼に抱かれたかった。
「……彰士」
顔を上げたとき、あたしは泣いてしまっていた。
「…麗佳……」
あたしの様子がおかしいこと、普通の時だって色んな人にすぐバレるのに、彰士に分からないはずがなかった。
「……………」
彰士の唇があたしに重なる。
(先生……大好き……)
テルのことがどんなに好きになっても、先生への気持ちはあたしの中で変わらないままだった。
あんなにも求めて手に入ったのに。
それなのに、自分から手放してしまうなんて。
彰士もあたしが好きで……あたしも彰士のことがこんなにも好きなのに。
「………」
唇が離れたとき、あたしは指先まで震えていた。
あたしはそのまま子どもみたいに、嗚咽を漏らして泣いてしまった。
しばらくしてあたしは落ち着いてくる。
「麗佳……。…もしかして、……今日が最後?」
彰士はあたしを抱きしめたまま、言った。
「………」
(『最後』……)
その言葉の重み。
やっぱりあたしが何を考えてるかっていうの、彰士は察してた。
さっきからあたしは何も言えてない。
「何にもしてやれなくて……寂しい思いばっかりさせて…ごめんな…」
彰士の息がかかる。
その息遣いが、微かに震えていた。
寒いわけじゃない。
……先生の気持ちが、……初めて実感を伴って分かる。
「彰士」
『別れる』なんて、言ってないのに…。
あたしからは、まだ何も言ってないのに。
あたしの腕の中の彰士は大人過ぎて、…あたしはいつも子どもで…。
こんな風に先生に言わせても、それでも何も言えない自分が情けない。
あたしは、どうしたいの…?
どうして、先生と……別れてしまうの……?
「…ごめんね、彰士……」
彰士は新幹線のホームまで送ってくれた。
駅のホームにも人がいたけど、あたしはもう全然気にならなかった。
指定席はとっていなかった。
ベンチで彰士と並んで座る。
ホームに着いたときすぐに電車が来たけど、それには乗らなかった。
「………」
彰士はあたしの手を握っていた。
あたしも彼の手を握り締める。
「麗佳」
「……」
あたしは顔を上げた。
さっきから収まってはまた涙が出て、…その繰り返しで顔はぐちゃぐちゃだった。
「……行くなよ」
彰士が真っ直ぐあたしを見る。
こんな風に、引き止められるなんて予想もしてなかった。
聞きたくなかった……だけど、本当は言って欲しかった…。
「麗佳は、もうオレと会えなくなっても……いいのか?」
あたしはその言葉に大きく首を振りたかった。
会えなくなって、いいワケなんてない。
また涙が滲んでくる。
このまま、先生の腕の中に倒れてしまいたかった。
あたしは首を振った。
「……だけど……」
そう言うのが精一杯だった。
「行くな……」
座ったまま、先生に抱きしめられた。
(彰士……)
頭が真っ白になるっていうの、こういう事なんだなって思った。
あたしはもう何も考えられなかった。
自分が何をしているのかさえ、ハッキリと分からないままだった。
「ごめんね、……彰士」
ホームに電車が入ってくる。
あたしはそう言うと、立ち上がった。
「…麗佳…」
特急電車が入ってくる時の強い風が、まるで2人の間を流れてくみたいだった。
「……先生……さよなら…」
繋いでいた手が離れる。
あたしは吸い込まれるみたいに、電車のドアへ入っていった。
振り向けなかった。
出会ったときのこと、…普段の『先生』の姿じゃない彰士。
優しく激しくしてくれる愛撫、…たくさんのキス。
あの指。胃が痛くなるぐらいに見つめた化学の授業。
いつも学校で見てた白衣の後ろ姿。
すれ違うときに、時々見せてくれた先生の笑顔。
あたしの高校生活を一喜一憂させていた先生。
突然いなくなって、もう会えなくなるって思ってた日。
卒業式の時の彰士…あたしを引っ張って学校から去ったあの日。
あたしの、『彼氏』の…先生。
『行くな』という言葉、『好きだよ』と言ったときの声……
色んな想いと、出来事が一気にこみ上げてきて、
あたしは新幹線の中で通路に立ったまま、ずっと泣いていた。